二十四 第二の悲鳴

文字数 2,781文字

 午後十時前。
 五階個室から望む東の山々が、奥山館東側の庭園の照明で煙って見えた。
 先ほどまで奥山館の外は激しい雨だった。あの夜もあんな雨の夜だった・・・。
 鞠村まりえは十四年前を思いだしながら窓辺から離れて、サイドテーブルの受話器を取った。ベッドサイドの時計はまもなく午後十時だ。
「鞠村です。すみませんが、何かお酒をいただけないかしら。眠れないので」
「わかりました。国産ですがブランデーはいかがですか?」
「ええ、お願いします。銘柄は気にしないわ。眠れればいいの」
「では、スモークチーズとチョコレートをお持ちしましょう。
 鞠村様の好物とお聞きし、用意してあります」
「うれしいわ。ありがとう。本当にありがとう」
「では、しばらく、お待ちください」
 フロントの通話が切れた。
 しばらくすると、庭園の向こうの雨の暗闇にそびえる山々の風景と雨に濡れた窓の間を、何かが落ちていった。窓に背を向けた鞠村まりえの視界に、その光景は入っていなかった。

 午後十時前。
 奥山誠支配人は三階の客室係専用室にいる村田秋吉客室係にインターホンで、用意してあるブランデーとスモークチーズとチョコレートを五階の鞠村まりえの部屋へ届けるように指示して、インターホンのスイッチを切った。奥山支配人はカウンターテーブル内側の時計を見て、鞠村まりえに届けた品を記録した。
 
 午後十時。
 一階の奥から悲鳴が響いた。
 奥山館の本館は南北に長い建物だ。一階南側に眺望の開けた大きなロビーとフロントがあり、フロントの前から北へ広い通路が延びている。通路の東側にはフロントから北方向建物の奥へ事務所と調理場がつづく。
 本館北にある別館二階に大浴場があり、本館と別館の各階にも温泉の浴室がある。
 一階奥の東側に、半地下から五階までつづく従業員用階段がある。一階からその階段を半地下一階へ下りると西へ延びる通路途中の右手に倉庫があり、その相向いに食糧貯蔵庫のドアがある。通路をまっすぐ進むと半地下の駐車場へ出るドアに突きあたる。

 悲鳴は半地下一階からのようだ。
「高須!フロントを代ってくれ!奥を見てくる!安藤副支配人を呼んでくれ!」
 奥山支配人は休憩室にいる高須亮客室係をインターホンで呼び、通路を奥へ走った。

 その時、また一階に悲鳴が響いた。
 今度は一階奥の右手、調理場からだ。
「いったい、何だ!?」
 奥山支配人は通路を調理場へ走った。調理場では調理人と仲居たち従業員が調理場の外、奥山館の東側にある日本庭園を見ていた。ここは奥山館の裏手だ。

 深山温泉がある奥山郷に奥山川と支流の岩魚川の自然がある。この風光明媚な渓谷の流れとその中にそびえる大きな玄武岩の柱状節理の岩壁を臨むため、奥山館は奥山川の東岸にあり、奥山館の正面玄関は西側にある。奥山館の正面左に、露天風呂と東屋を備えた庭園があり、ここからも奥山川の渓流と柱状節理の岩壁を臨める。奥山館の東側にある日本庭園は奥山館の裏手だ。

 奥山支配人は従業員たちをかき分けて日本庭園を見た。
 建物正面の庭園にくらべ、建仁寺垣で調理場を隔てるように作られた奥山館東側の日本庭園は雨に濡れてひっそりしていた。その静寂と同化するように、つくばいへつづく踏み石に、女がひれ伏すように倒れていた。女の姿は、つくばいの水を求めて手を差しのべる砂漠の旅人のように見えた。雨が降っているのに、踏み石に倒れている女から、水を求めて砂漠に倒れた旅人を連想し、奥山支配人は不謹慎を痛感した。

 奥山支配人は調理場の裏口ドアから日本庭園へでた。踏み石に屈んで女の顔を確認した。女は宿泊客の福原富代だった。そして、踏み石の上で庭園灯の青白い光を受けた大量の黒っぽい流れは、明らかに血だった。
 奥山支配人の鼓動がいっきに激しくなった。首筋と耳が鼓動で律動し、差しだした右手の指が鼓動とともに小刻みに上下した。雨に濡れながら奥山支配人は鼓動とともに揺れる指先を福原富代の首筋に触れた。脈は無い。死んでる・・・。
 ふりかえった奥山支配人は調理場を見た。調理場の窓と庭園へでるドアに、従業員が呆然と奥山支配人の行動を見ている。

 高須客室係が調理場の出入口に現れた。フロントを安藤副支配人と交代したと伝えた。
「高須!三階の佐伯さんに来てもらえ!誰か、シートを持ってこい!」
 奥山支配人は高須客室係に指示し、倒れている福原富代の周囲に誰も立ち入らぬよう、建仁寺垣のそばにある縁台を持ってきて囲った。
 高須客室係はただちに調理場の電話で三階客室の佐伯刑事に連絡した。
 佐伯刑事の妻は、最初の悲鳴を聞いて佐伯刑事が部屋をでていったと告げた。
「奥さんが、佐伯さんは地下へ下りたといってます。地下からシートを持ってきます!」
 高須客室係はそういって調理場を飛びだしていった。
 従業員は誰も、高須客室係の言葉、『佐伯さんは地下へ下りた』を不審に思っていなかった。

 さらに奥山支配人が指示した。
「料理長!フロントの副支配人を呼んでください。
 それから、当直の従業員に、お客がどこで何をしてるか確認させ、従業員はお客とともに、その場を動くな、と伝えてください」
「・・・・」
 中野清料理長は緊張から黙って窓辺に立ったまま身動きしない。膝が震えている。
 運んだ縁台を並べ変えながら奥山支配人がいう。
「料理長!非常時にどうするか、訓練してるでしょう!その通りにしてください!」
 調理人も仲居も、福原富代を見たまま呆然としている。
 業を煮やして奥山支配人は大声でいう。
「オイ、コラ!天変地異じゃないんだ!
 非常時の待避時の集合状態のまま、その場で待機させろといってるんだ!
 副支配人が来るまでだ!早く指示しろ!」
 あわててフロントの副支配人に電話する中野料理長の姿に、奥山支配人は舌打ちした。
 バカめ!そのくらいの指示はできるだろう!日頃、口うるさいくせに、いざとなればおどおどして要領を得ない!このマヌケめ!

 高須客室係がブルーの防水シートを持って戻った。従業員をかき分けてシートを奥山支配人に渡し、奥山支配人に耳打ちした。
「関口虎雄が倉庫で感電死してます・・・」
「どの電源でだ?」
 奥山支配人はシートを受けとり、驚きのまなざしで高須客室係を見ている。
「倉庫の三相動力用の二百ボルトです」
 高須客室係は福原富代を見て目を伏せた。
「佐伯さんに連絡したか?」
「はい。佐伯さんたちは飛田さんたちといっしょに、村田に案内されて倉庫にいます」
 佐伯たちと真理たちを案内したのは村田秋吉客室係だ。山本刑事と只野巡査も、佐伯とともに現場にいるらしい。
「もうすぐこっちに来ます。現場を保存してほしいそうです・・・」
「わかった・・・。端を持ってくれ・・・」
 奥山支配人は、高須客室係にシートの端を渡し、二人でシートを拡げて福原富代と縁台を覆った。
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