痛むその傷 体か心か

文字数 5,090文字

 ユーグは、神父の言い付け通り家に戻っていた。しかし、その表情はどこか暗く、処遇について納得がいかない様子でもある。

 夕方になって姉が帰宅した際、ユーグはリビングのテーブルに伏していた。それを見たアンナは心配そうにユーグの顔を覗き込み、優しい声で話し掛ける。
「どうしたの、ユーグ? まだ、怪我が痛む?」
 その問いを聞いたユーグは首を振り、顔を上げて姉の顔を見つめた。
「ううん。痛くは、無い」
 ユーグの台詞を聞いた者は首を傾げ、それから小声で話し始める。
 
「本当に? 痛かったら我慢しちゃ駄目。早く治したいでしょ?」
 姉の問いにユーグは頷き、それから上体をゆっくり起こす。
「我慢してない。ただ、大きく動けないのきついかも」
 そう言ってユーグは苦笑し、話を聞いていた姉は小さく頷いた。
「片手だけじゃ、色々と不便だものね……早く、お医者様の許しが出れば良いのだけれど」
 アンナは、そう言うとユーグの左肩を見下ろした。この時、ユーグの左肩の腫れは引いているように見え、服越しでは怪我をしているようには思えなかった。
 
「とにかく、早く治る様に栄養たっぷりの料理を作るわね。良い材料も手に入ったし」
 アンナは、そう言うと柔らかな笑顔を浮かべる。一方、姉の笑顔を見た者は小さく頷き、満足そうな表情を浮かべた。
「じゃあ、料理が出来るまで待っていてね」
 そう言い残すと、アンナはキッチンへと向かって行く。椅子に座るユーグと言えば、そんな姉の背中を黙って見送り、料理が出来上がるのを静かに待った。

 教会へ呼び出された次の日、ユーグはアンナと共に家を出た。そして、教会の近くに在る孤児院へ向かう為、名残惜しそうに姉と別れる。
 ユーグが孤児院へ向かうと、その入り口では中年女性が待っていた。その女性の横には、ペンキや刷毛の入った籠が置かれており、彼女はユーグの存在に気付くなりそれを持ち上げる。
 
「お早うございます。今日は、柵の塗り替えをお願いしますね」
 女性は、そう言うと籠を持ったまま歩き始めた。一方、ユーグは軽く会釈をしてから女性の後を追い、二人は木の柵で囲まれた畑に到着する。
 目的地に着いた女性は柵の外側に籠を下ろし、それからユーグの方に向き直った。
 
「では、ここの塗り替えをお願いしますね。何か有ったら、孤児院まで来て下さい」
 そう伝えると、女性はユーグの目を見つめて微笑んだ。対するユーグは小さく頷き、それから女性の目をじっと見つめる。
「分かった。全部塗れば良いよね?」
「はい。一周全部塗り替えて下さい。ああ、そうだ。後で昼食を持ってきますね」
 そう言って、女性は首を傾げた。一方、ユーグは再度頷き、地面に置かれた籠を一瞥する。
 
「他に、聞いておきたいことはありますか?」
 女性の問いにユーグは首を振り、その仕草を見た者は無言で頷いた。
「では、私は孤児院に戻りますね。ああ、そうそう。塗り終わったら、籠は置いて報告に来て下さい。籠を持つのは、流石に負担が掛かるでしょうから」
 そう伝えると、女性は地面に置いた籠を見下ろす。この時、ユーグも籠を見下ろし、数秒してから目線を上げた。
 
「了解しました。終わったら報告します」
 ユーグの台詞を聞いたところで女性は微笑み、静かに孤児院へ戻って行った。一方、畑に残されたユーグは籠の前でしゃがみ込み、そこに入れられた刷毛を摘み上げる。
「ちょっと、懐かしいかな?」
 そう呟くと、ユーグは刷毛を持ったまま柵を見回した。畑の周りに設置された柵は一カ所を除いて繋がっており、それは決して短いものでは無かった。しかし、それを見たユーグに気怠るそうな様子は無く、右手で一つのペンキ缶を取り出す。
 
 ペンキ缶を取り出したユーグは両足でそれを固定し、刷毛の柄を使って蓋を開けた。そして、刷毛を持ちかえて塗料に漬けると、柵に白い塗料を塗り始める。
 ユーグの柵を塗る手付きは慣れており、むらも無く柵は白く染められていった。ユーグは、時折ペンキ缶を動かしながら塗り進めていき、正午を過ぎた頃には作業の半分程が終わる。
 
 その頃、ユーグの元に向かう人影があり、それは金属製のプレートを抱えていた。そのプレートの上には、柔らかなパンやハンバーグが乗せられ、牛乳の注がれたカップも在る。また、新鮮な野菜で作られたサラダや良く熟したバナナも乗せられ、それらを全て食べるにはそれなりの時間が掛かるように思われた。
 
 プレートを持つ者は、ゆっくりとユーグに近付いて行き、手の届く位置に来たところでその名前を呼んだ。すると、ユーグは作業の手を止めて振り返り、名を呼ぶものを確認しようとする。振り返ったユーグの瞳には、朝に会った女性の姿が映し出された。一方、ユーグを呼んだ女性は申し訳なさそうに苦笑し、目線だけを動かして手に持ったプレートを見る。
 
「ごめんなさいね、子供達と同じメニューで」
 そう伝えると、女性はユーグの目を見つめて息を吐き出した。彼女の話を聞いたユーグは首を横に振り、プレートに並べられた料理を一瞥する。
「ううん、ありがとう、リタさん」
 そう言うと、ユーグはプレートに手を伸ばした。しかし、女性はそれを手渡さず、朝に籠を置いた場所へ顔を向ける。
 
「片手で持つには重いわ。私が、台になる所に運んでおくから」
 言って、女性は籠の在る方へ向かって行った。一方、ユーグはペンキ缶に蓋をするとその上に刷毛を置き、静かに女性の後を追う。
 リタが籠の上にプレートを置いた時、ユーグはその背後に来ていた。プレートを置いた女性と言えば、ゆっくりとユーグの方に向き直り、柔らかな笑みを浮かべて話し始める。
 
「良く噛んで、ゆっくり食べてね。食器は私が後で回収するから、このままにしておいてくれて大丈夫」
 女性の指示を聞いたユーグは無言で頷き、その仕草を見たリタは孤児院へと戻っていった。この際、ユーグは女性を見送った後で籠の前に腰を下ろした。そして、プレートに置かれた料理を眺めると、それらを少しずつ口に運んでいく。
 
 ユーグは、十数分を掛けて食事をし、空になった食器を見下ろして一息つく。その後、ユーグは少しの休憩をした後で作業を再開し、暗くなり始めるまでペンキを塗り続けた。
 ユーグがペンキを塗り終えた時、心配をしたリタが畑にやってきた。彼女は、ユーグの姿を確認するなり駆け寄り、その手に持った刷毛をちらりと見る。
 
「終わった、とこ。今から、報告。行こうと、思って、た」
 ユーグの話を聞いた女性は頷き、それから小さく咳払いをする。
「終わったなら良かった。暗くなってきたから、あなたはもう帰りなさい」
 女性の話を聞いた者は首を傾げ、それから小声で話し始める。
 
「でも、片付け、とか」
「いいから、子供は家に帰りなさい。家には、待っているお姉さんが居るんだから」
 そう言い放つと、リタはユーグの手から刷毛を取り、地面に置かれた缶を持ち上げた。そして、女性は籠が置かれた場所に目線をやると、先程より大きな声を発する。
 
「ほら、帰った! 帰った! 後は、備品を持って帰るだけなんだから!」
 その台詞を聞いたユーグは頷き、直ぐに家へ向かって行った。一方、女性は軽くなった缶や刷毛を籠に仕舞うと、それを抱えて孤児院へ戻っていく。
 
 その翌日も、ユーグは孤児院へと向かって行った。しかし、そこで待っていたのはリタでは無く、空の籠を持ったアンナだった。姉の姿を見たユーグは目を丸くし、アンナは微笑みながら口を開く。
 
「あら、今日来るお手伝いさんって、ユーグのことだったのね」
 この時、ユーグはゆっくりとした呼吸を繰り返し、自らの考えを整理した。そして、小さく頷いてみせると、姉の目を見つめて話し始める。
「ん。怪我治るまで。孤児院のお手伝い」
 ユーグは、そう言うと姉の持つ籠を見つめた。一方、ユーグの目線の動きを見た姉は籠を抱え、いたずらな笑みを浮かべてみせる。
 
「駄目よ、ユーグ。これは、私の籠なんだから」
 言って、アンナは歩き始めた。姉の動きを見たユーグと言えば、慌てることも無くアンナの後を追いかけていく。暫く歩いた後、二人は白い柵に囲まれた畑に到着する。その畑には、赤や黄色をした野菜が沢山生っており、それらは日の光を浴びて輝いていた。
 
 畑に入ったアンナは、抱えていた籠を地面に置き、そこから一周り小さな籠を取り出した。そして、取り出した籠をユーグに渡すと、赤く丸い野菜を指し示す。
「ユーグは、トマトの収穫をお願いね。美味しそうなものを、籠に入れていってくれれば良いから」
 姉の言葉を聞いた者は頷き、渡された籠を足元に置いた。ユーグは、暫く畑を見回した後で、艶々としたトマトを手に取る。そして、それを潰さぬよう籠に入れると、その作業を籠が一杯になるまで続けていった。
 
 籠が一杯になった時、ユーグは姉のいる方に向き直る。この際、姉は黄色をした野菜を収穫しており、その足元に置かれた籠もほぼ満杯であった。
「ねえ、姉さん。沢山、採れた」
 ユーグの声を聞いた姉は振り返り、それからトマトが沢山入れられた籠を見下ろす。そして、嬉しそうな笑みを浮かべると、微笑みながら口を開いた。
 
「ありがとう、ユーグ。じゃあ、収穫した物を孤児院の調理場へ持っていきましょう」
 アンナは、そう言うと自らの足元に置かれた籠を持ち上げる。そして、ユーグに目配せをすると、孤児院の方へ向かっていった。
 その後、二人は畑と孤児院を何度も往復し、食べ頃の野菜を収穫していく。全ての収穫を終えた時、ユーグとアンナは共に家へ戻っていった。姉と並んで歩くユーグの顔は夕日で照らされ、アンナは収穫されたばかりの野菜をしっかりと胸に抱えている。
 
「今日のお夕飯は、チーズを掛けたサラダと、トウモロコシのポタージュにしましょうか」
 アンナは、そう言うとユーグを横目で見やった。対するユーグは小さく頷き、嬉しそうに話し始める。
「クリームたっぷりだと、嬉しい、かも」
 そう伝えると、ユーグは恥ずかしそうに頬を掻く。一方、その要望を聞いたアンナは笑顔で頷き、胸に抱えた野菜を見下ろした。
 
「そうね。その方がお腹もいっぱいになるし……あら?」
 アンナは、そこまで話したところで立ち止まり、道の端を見下ろした。
「あなたも、クリームが欲しいの?」
 姉の台詞を聞いたユーグは立ち止まり、首を傾げた。その後、ユーグは姉が顔を向けている側に目線を動かし、そこに何が在るのかを確認する。すると、そこには顔を見上げる黒猫の姿が在り、その猫はアンナが持つ野菜をじっと見つめていた。
 
「姉さん、その仔、知り合い?」
 ユーグの話を聞いたアンナは声のした方へ顔を向け、疑問に対する答えを話し始める。
「知り合いって言うより顔見知りかしら? 時々、帰り道で会うのよね」
 そう返すと、アンナは猫を見下ろした。すると、黒猫はまるで彼女の言葉に反応したかの様に鳴き声を上げ、それを聞いた二人は顔を見合わせる。
 
「あら、どうやら顔見知りで間違いないみたいね」
 言って、アンナは静かにしゃがみ込んだ。すると、黒猫は脅えながらもアンナの持つ野菜の匂いを嗅ぎ、それから首を傾げてみせる。
「これは、私達の食べ物。あなたが食べるものは無いわよ?」
 そう言うと、アンナは小さく首を傾げた。一方、黒猫はつまらなそうに立ち去ってしまい、それを見たアンナはゆっくりと立ち上がる。
 
「待たせてごめんね、ユーグ。帰りましょうか」
 姉の言葉にユーグは頷き、二人は家に向かって歩き始める。その途中、ユーグは姉の方に顔を向けて名を呼び、呼び掛けられた者は口を閉じたまま返事をした。
「あの仔、ひとりぼっちなのかな?」
 ユーグの問いを聞いた姉は目を細め、それから自らの考えを話し始める。
 
「んー……確かに、他の猫と一緒のところは見ないけれど。でも、ひとりぼっちなのかは分からないわ」
 そう返すと、アンナは微苦笑してユーグの方へ目線を向けた。一方、ユーグは目線を下に向けて歩いており、何か言葉を返す様子は無い。この為、アンナは静かに空を仰ぎ、そのまま大きく息を吐き出した。
 
「きっと、同じ日に生まれた兄弟が居るわ。そうじゃなかったら、私達が優しくしてあげましょう?」
 その台詞を聞いた者は頷き、ユーグの仕草を見たアンナは安堵の表情を浮かべる。
「さ、そろそろ家に着くわ。今日は、頂いた野菜が沢山あるし、頑張らないと」
 アンナは、そう言うと歩く速度を上げた。隣を歩く者はアンナの速度に合わせて進み、程なくして二人は家へ到着する。
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登場人物紹介

???
内容の都合上、名無し状態。

顔に火傷の痕があり、基本的に隠している&話し方に難有りでコミュニケーション力は残念め。
姉とは共依存状態。

シスターアンナ
主人公の姉。
ある事情から左足が悪い。
料理は上手いので飢えた子供を餌付け三昧。

トマス神父
年齢不詳の銀髪神父。
何を考えているのか分からない笑みを浮かべつつ教会のあれこれや孤児院のあれこれを仕切る。
優しそうでいて怒ると怖い系の人。

シュバルツ
主人公の緩い先輩。
本名は覚えていないので実質偽名。
見た目は華奢な青年だが、喧嘩するとそれなりに強い。
哀れな子羊を演じられる高遠系青年。

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