崩壊の序章

文字数 2,776文字

 父親が出張を終えてから暫く、言い争いが起きることなく時は過ぎていった。しかし、彼の仕事が忙しく帰宅時間が遅くなると、再び家の中に不穏な空気が流れ始める。子供らは、その空気を感じながらも元気に過ごし、脅える様子も見えなかった。一方、大人達は気持ちのすれ違いを繰り返し、亀裂を深めていく。
 
 数日続けて父親の帰宅時間が午前となった時、妻は夫に詰め寄った。連日の残業で疲れ切った夫は軽くあしらって床につくが、それが妻の不満をより強いものにしていった。それが何度か繰り返された時、妻は奇声を上げながら夫に殴り掛かった。その声に子供らは起き出し、父親は妻を宥めながら姉妹に寝室へ戻るよう告げる。
 
 姉妹は父親の言うことを聞いて寝室に戻るが、その後も続く奇声に恐怖を覚えていた。妹はベッドの上で泣きそうな顔を浮かべ、姉は妹の頭を撫でながら自らも落ち着こうと試みる。
 朝が来ると、両親は何事も無かったように子供に接した。姉妹も、あれは何かの間違いだと無意識のうちに自分に言い聞かせ、明るく振舞おうとしている。
 
 そうして、表立って何も起きない日が続いていったが、夫婦の仲は次第に冷え切っていった。夫は、妻の態度に呆れ、意図して家に帰らない日が増えていく。妻は、それに対して子供の前であろうと怒りを露わにし、その態度に呆れた夫はついに子供を置いて家を出た。

 夫が家を出てからと言うもの、母親の気性は激しくなり、気持ちの高ぶりに任せて子供へ当たるようになった。その上、料理を始めとして様々な家事を放棄するようになり、子供達の体重は成長期にも関わらず減っていく。
 
 それを心配した近所の者は、子供に声を掛けて食事を与えることも有った。しかし、それが母親に知られてしまうと、姉妹は酷く叱られることになった。その上、妹は家から出ることすら禁じられ、殆ど日の当らない部屋に軟禁されてしまう。姉は、学校に通っていることもあって外出は許されたが、少しでも帰宅が遅れると腹部を何度も殴られることになった。
 
 顔色の悪い姉を見た教師が心配をすることもあったが、姉は気丈に振舞って心配させまいとした。この為、教師は心配ながらも様子を見ることにし、その間にも母親からの虐待は酷くなっていく。
 ある日、空腹に耐え切れなかった妹が食事を要求すると、母親は虚ろな目で娘を見つめた。そして、彼女は無言のまま台所に立つと、鍋で大量の油を熱し始めた。母親は、油が十分に熱せられたところで捨てられていた生ゴミを鍋に入れ、子供を見下ろしながら口角を上げる。
 
「ほら、作ってやったんだからちゃんと喰え!」
 母親は、そう言うと熱せられ水分の飛んだ林檎の芯を子供に投げつける。衰弱した子供は、それを受け取ることも避けることも出来ず、揚げられた芯は顔に当ってから床に落ちた。娘が与えたものを受け取らずに落としたところを見た母親は激昂し奇声を上げる。そして、目を剥いて罵声を浴びせると、油の入った鍋を持ち上げた。
 
 それを見た子供は必死に謝るが、恐れの為かその場から動くことは出来ない。小さな娘は涙を流しながら落ちたものを拾おうとするが、手が震えてしまいどうにもならなかった。
「お前が食べたいって言ったんだろうが!」
 そう叫ぶと、母親は鍋の中身を娘に向けて浴びせかけた。娘は反射的に腕で目元を庇うが、顔の殆どと左半身の多くに油を浴びてしまう。娘は、その熱さに声も出ず、ただ油を受けたままの姿勢で固まっていた。
 
 対する母親は、鍋を床に投げ捨てて笑い、笑い終えたところで床に腰を下ろした。この時、学校に行っていた姉が帰宅し、固まったままの妹に駆け寄る。
 姉は、赤く爛れた妹の顔を見るなり声を漏らし、その体を抱き上げてバスルームに向かった。そして、シャワーから出る水を妹の体に掛けて冷やすと、油の付着した衣服を脱がそうとする。しかし、火傷した皮膚が妹の着ている服に付着してしまい、直ぐに脱がすことは出来なかった。
 
 姉は、仕方なく服を脱がすことを諦め、妹の体を冷やすことに集中する。その後、姉は妹をバスルームに残して薬を探し始めた。しかし、思いつくところを探してもそれは見付からず、姉は肩を落として妹の元に戻る。
 バスルームに戻った姉は妹に対して謝り、痛々しい火傷跡を見つめた。辛そうに謝る姉を見た妹は首を振り、右手で姉の手を握る。この際、妹は姉に何かを言おうと口を開くが、それが声になって発せられることは無かった。姉は、そんな妹を無言で抱きしめ、そのまま数十分の時が経つ。
 
「ねえ、逃げよう? パパならきっと」
「逃げるだと! ふざけんな!」
 姉が話し始めた時、背後からは狂った者の声が響く。狂った者は背後から姉を殴り倒すと、その髪を掴んで頭を床に叩き付けた。
 この時、姉は左腕を下にして倒れており、妹は心配そうに姉の顔を見下ろす。
 
育ててやった恩を忘れやがって!」
 そう言うと、母親は奇声を上げながら姉の左足首を何度も踏み付けた。何度か踏みつけるうちに姉の足首からは鈍い音がし、それを聞いた母親は満足そうな笑みを浮かべる。
「あーあ、これじゃあ逃げられないねえ、可哀そうに」
 そう言い放つと、母親は姉の背中を強く蹴った。そして、バスルームを出ると勢い良くドアを閉め、楽しそうに笑いながら去っていく。
 
 バスルームに残された姉は涙を浮かべながら体を丸め、妹は戸惑いながら姉の顔を覗き込んだ。一方、姉は痛みを堪えながら顔を上げ、小さな声で妹の名を呼ぶ。
 ところが、名を呼ぶ声を遮るように、バスルームの外からは何か重いものを落とす音がする。この時、バスルームの外では、母親が――子供二人が出られぬよう――机や椅子を積み上げていた。それ故、二人が外に出ようと試みた時には、ドアは子供の力ではどうやっても開かない状態となっていた。
 
 それでも、姉妹は必死にドアを開けようとし、その間にも姉の足首は腫れていった。二人は、他に出られそうな場所を探すが見当たらず、それぞれに痛みを堪えて耐え続けた。
 小さな少女は、声が枯れるまで叫び続けた。母親は、最初こそ煩いと怒鳴っていたが、何度かしたところで聞こえないふりを決め込んだようだった。反応が無くとも姉は諦め無かったが、妹が疲れた様子で目を瞑ったところで叫ぶことを止める。
 
 夜が開け、妹が目を覚ました時、姉の脚は熱を持って腫れていた。姉は、シャワーの水を使ってそれを冷やすが、それは根本的な治療にはならなかった。
 二人が閉じ込められてから数日が経ってもドアが開けられることは無く、姉妹は水だけを飲んで耐えていた。しかし、幼い妹にそれは耐えがたく、ついには横になったまま殆ど動けなくなってしまう。それを見た姉は助けを呼ぼうと声を発するが、彼女の声は掠れてしまい外に届くことは無かった。
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登場人物紹介

???
内容の都合上、名無し状態。

顔に火傷の痕があり、基本的に隠している&話し方に難有りでコミュニケーション力は残念め。
姉とは共依存状態。

シスターアンナ
主人公の姉。
ある事情から左足が悪い。
料理は上手いので飢えた子供を餌付け三昧。

トマス神父
年齢不詳の銀髪神父。
何を考えているのか分からない笑みを浮かべつつ教会のあれこれや孤児院のあれこれを仕切る。
優しそうでいて怒ると怖い系の人。

シュバルツ
主人公の緩い先輩。
本名は覚えていないので実質偽名。
見た目は華奢な青年だが、喧嘩するとそれなりに強い。
哀れな子羊を演じられる高遠系青年。

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