苦しき決意
文字数 5,821文字
神父が電話を終えてから十数分程経った時、彼の居る部屋にドアを叩く音が響いた。この時、神父は訪問者に部屋へ入るよう指示し、それを聞いた者は彼の指示に従う。訪問者は金属製のプレートを持っており、その上には紅茶の注がれた白いカップが三つ乗せられていた。
部屋に入ったアンナと言えば、そこに居た人数を見て不思議そうな表情を浮かべた。しかし、彼女はその疑問を口に出さず、シュバルツらの居るソファーへ近付いて行く。
ソファーの傍に来たアンナは、神父やシュバルツの前にカップを置いた。アンナが三つ目のカップに手を伸ばした時、神父はアンナの目を優しく見つめ、開いているソファーへ向けて腕を伸ばす。
「座って下さい、シスターアンナ」
神父の指示を聞いたアンナは目を丸くし、動きを止めた。一方、その仕草を見た神父は微笑し、落ち着いた声で話を続ける。
「貴女に話が有るのですよ、シスターアンナ。ですから、先ずは座って下さいな」
その一言を聞いたアンナは、カップの乗せられたプレートを机の端に置き、神父と向かい合う形で腰を下ろした。そして、膝に手を置いて深呼吸をすると、不安そうに神父の目を見つめる。
「詳しいことは、シュバルツから聞いて下さい。私は、彼から知らされたまでですから」
そう言うと、神父は青年の横顔を見つめた。その視線に気付いたシュバルツと言えば、アンナの目を見つめて笑顔を浮かべる。この際、彼の表情を見たアンナは笑顔を作り、そのまま青年が話し始める時を待った。
「えっと……君達の父親のことなんだけど、聞いてから後悔しない?」
そう伝えると、シュバルツは気まずそうに苦笑した。対するアンナは驚きの為か瞬きの回数を増やし、無言で青年の台詞を反芻する。
それから数分後、アンナは胸に手を当てて呼吸を整え、目を細めて話し始めた。
「分かりません。ですが、こう言った形で呼び出す様な内容なら、聞かなければ余計に後悔することになるのでしょう」
アンナは微苦笑し、青年に向けて頭を下げた。
「お願いします、シュバルツさん」
その一言を聞いた青年は頷き、口元に手を当てて小さく咳払いをした。その後、シュバルツはアンナが頭を上げた時を見計らって話し始め、数分経ったところで説明を終える。
話を聞き終えたアンナの表情は暗く、彼女の様子を見た二人も辛そうな表情を浮かべている。そのせいか室内は静まり返り、アンナが話し始めるまで物音すらしなかった。
「返答は、明日にさせて頂いても宜しいですか? その……直ぐには、心の整理が出来ないので」
そう伝えると、アンナは深く頭を下げ、彼女の仕草を見たシュバルツは神父の顔を一瞥する。
「俺は別に良いけど……手遅れになるかも知れないことだけは、覚えておいてね」
そう言って、シュバルツはアンナの目を見つめた。対するアンナは無言で頷き、それを見た青年は細く息を吐き出す。
「神父様は何か有る? 俺と違って、育ての親みたいな立場だし」
シュバルツに問い掛けられた者は小さく頷き、それからアンナの目を真っ直ぐに見つめた。
「シスターアンナ、貴女がそう思ったのなら待ちますよ。私は、貴女を見守る義務は有っても、行動を強制する権利はございませんから」
そう話すと、神父は柔らかな笑みを浮かべてみせた。すると、アンナは神父に対して礼を述べ、対面に居る二人に対して深く頭を下げる。
「話は終わりです。他にやることも有るでしょうし、カップの片付けは私がやりますから、貴女はもう戻りなさい」
そう言うと、神父は笑顔を浮かべてアンナを見つめた。一方、アンナは顔を上げると肯定の返事をなし、ゆっくりと部屋の外へ向かって行く。
アンナが退室した後、シュバルツは気まずそうに苦笑し、神父の横顔を見つめた。そして、彼はアンナの足音が遠ざかった事を確認すると、小さな声で話し始める。
「俺、早まったかな……取り乱しはしなかったけど、かなり衝撃を受けていたみたいだし」
青年は、そこまで言ったところで立ち上がり、神父と向かう合い形で座り直した。そして、先程まで自分の前に在ったカップを引き寄せると、そこに注がれた茶を一口飲む。
「早まった、ということは無いでしょう。重体と言うことは、知らせが遅れれば生きて会えないこともあるのですから」
そう返すと、神父は既に温くなった紅茶へ手を伸ばした。
「第一、何時かは知ることになるでしょう。他人である誰かさんが、気付いた位なのですから」
言って、神父はカップに口を付けた。この時、シュバルツは苦笑しながら後頭部を掻いており、そうしながら神父に返す言葉を模索している。
「それもそう……かな? 本人が気付かなくても、話題に上がることだってあるかも知れないし」
そう言ってから青年はソファーに深く座り直し、天井を見上げた。
「ま、会うか会わないかは本人が決めるんだし、俺は入院先でも調べておくよ」
それだけ言うと、青年は紅茶を飲み干して息を吐き出した。
「報告はこれだけ。長居するのも変だし、俺は帰るね」
青年の言葉に神父は頷き、その仕草を見たシュバルツは立ち上がる。
「じゃ、連絡が来たら知らせてね。あの子らが望めば、送迎くらいは出来るし」
そう言い残すと、シュバルツは今まで居た部屋を出た。この時、一人残された神父は溜め息を吐き、残っていた茶を飲んでカップを片付け始める。
神父に呼び出された次の日、アンナは父親の話を聞いた部屋を訪れていた。彼女の眼前には神父の姿が在り、二人ともソファーに腰を下ろしている。また、ソファーに座るアンナは真剣な表情をしており、それを神父は見守っていた。
「良いのですか? 見舞いは一人だけで」
神父の話を聞いたアンナは小さく頷き、それから胸に手を当てて話し始める。
「はい。あの子と会わせるのは酷だと思うので……先ずは私だけで行って、それから改めて考えようかと」
アンナの返答を聞いた者は頷き、目の前に居る女性の目を真っ直ぐに見つめた。
「分かりました。では、シュバルツに連絡しますから、行ってきなさい。こちらの事は、私が良いようにやっておきますから」
そう言って、神父は笑顔を浮かべた。対するアンナは深々と頭を下げ、掠れた声で礼を述べる。
「では、連絡をしてしまいますね。ここに来るよう言いますから、少し待っていて下さい」
神父は、そこまで言ったところで立ち上がり、笑顔を浮かべてアンナを見下ろした。
「ああ、お手洗い位なら言わずに退室して構いませんよ? シュバルツが、直ぐに来るとも限りませんし」
その台詞を聞いたアンナは小さく頷き、彼女の仕草を見た男性は仕事机の方へ向かった。そして、机の上に有る電話へ手を伸ばすと、受話器を手に取って幾つかのボタンを押す。
数秒待って電話が繋がった時、神父は咳払いをして喉を通した。
「車付きで来て下さい。ええ、お願いしますよ」
神父は、そう言って電話を切り、直ぐにアンナの居る方へと戻って行った。
神父が電話を掛けてから数十分後、彼の居る部屋にシュバルツが現れる。部屋に現れた青年は藍色のスーツを身に纏っており、その手には車の鍵が握られていた。
部屋に入ったシュバルツは、直ぐにソファーの在る方へ向かい、アンナの横に立つなり笑顔を浮かべる。
「お待たせ。準備が出来ているなら、直ぐに行けるよ?」
青年は、そう言うと車の鍵を上方に投げて掴み取った。一方、それを見たアンナは目を丸くし、青年の顔をじっと見つめる。
「えっと……私は大丈夫です」
そう言ってアンナは立ち上がり、それを見たシュバルツは笑顔を浮かべた。
「じゃ、行こうか。病院までは、俺が案内するから」
そう伝えると青年は部屋のドアを開け、アンナに先に出るよう目線で伝えた。一方、彼の視線に気付いた者は足早に部屋を出、ドアのすぐ傍でシュバルツを待つ。
その後、青年はアンナの後を追って退室し、礼拝堂とは逆の方へ向かって廊下を進んだ。
神父の居る部屋を退室してから数分後、彼らは黒い車の停められている場所へ到着する。車の近くに来たシュバルツは助手席側のドアを開け、アンナにそこへ座るよう促した。一方、アンナは青年に促されるまま乗車し、それを見たシュバルツは開けていたドアを静かに閉める。
その後、青年は運転席に座り、発車の準備を始めた。シュバルツは程なくしてその準備を終え、ゆっくり車を走らせ始める。
「直ぐ来ちゃったけど大丈夫? 緊張してない?」
青年は、そう言うとアンナの顔を一瞥した。話し掛けられたアンナと言えば、目を伏せて小さな声で話し始める。
「していない……と言えば、嘘になります」
アンナは、そう言うと目を細め、ゆっくり息を吐き出した。
「別れたのは、十年以上も前のことですし……久しぶりに会った時のこともありますから」
言って、アンナは目を瞑った。この時、彼女の手は震えており、少なからず緊張していることが窺える。
「そっか……そうだよね。俺だったら、逃げてるかも」
シュバルツは、そう返すと微苦笑し、小さく息を吐き出した。
「でも……会わないままでいるのは、もっと辛いのです。楽しかった時の記憶も、残っていますから」
アンナは、そう言うと薄目を開け、青年の横顔をそっと見つめる。
「会って、何かが変わる訳でも無いのでしょう。でも、会いたい気持ちを拭えないのです」
そう加えるとアンナは苦笑し、その目線を前方へ向ける。
「そっか。それなら、会わなきゃだよね」
シュバルツは、そう返すと微笑み、細く息を吐き出した。その後、車内に会話の無いまま病院へ到着し、駐車場に車を停めた青年はアンナの横顔を見つめる。
「着いたよ。病室の番号は414だけど、初めて来る場所だろうし案内しようか?」
シュバルツの問いにアンナは頷き、その仕草を見た者は車のエンジンを切った。
「分かった。じゃ、案内するね」
青年はそう言って車を降り、彼へ続くようにしてアンナも降車する。シュバルツは、アンナが車のドアを閉めたところで車に鍵を掛け、病院の入り口に向かって歩き始めた。
「ありがとうございます。その……一人だと、心細かったので」
そう話すと、アンナは目を細めて苦笑する。そうこうしているうちに二人は病院の受付に到着し、そこで見舞うべき部屋番号を告げた。その後、二人は無言で顔を見合わせ、静かに病室へと向かって行く。受付を済ませた二人は階段を使って四階まで上がり、シュバルツの先導によって目的とする病室へ向かって行った。
二人が、数分を掛けて病室の近くまで来た時、彼らの目的地はやおら騒がしくなる。その騒ぎにアンナは身を強張らせ、シュバルツは緊張しながらも足を進めた。
シュバルツらが病室へ入る直前、医者や看護師らが慌ただしく病室に掛け込み、それを見た者達は足を止める。この時、青年はアンナの方を振り返り、言いにくそうに話し始めた。
「入りにくくなっちっゃたね……覗くだけ覗いてみる?」
青年の提案を聞いたアンナは小さく頷き、その仕草を見た青年はゆっくり病室へ向かって行く。
シュバルツが部屋の中を覗くと、そこにはベッドを取り囲む医師達の姿が在った。医師は、ベッドに横たわる者へ大声で話し掛けるが、患者が反応を示す様子は無い。
そのうち、医師は話し掛けることを止め、看護師らはベッドの端を持って移動を始めた。運ばれていく患者の腹部は赤く染まり、それを見たアンナはその場で膝をついてしまう。
医師達が通り過ぎた後、青年は直ぐにしゃがみ込んでアンナの顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 調子が悪いなら、どこかで」
「大丈夫です……その、ちょっと意識が遠のいちゃって」
そう言って、アンナは立ち上がった。一方、シュバルツは心配そうにアンナを見つめ、彼女に合わせるようにして立ち上がる。
この時、言葉とは裏腹にアンナの顔色は蒼白で、指先は小刻みに震えていた。それでも、彼女は手に力を込めて震えを抑え、青年の目を見つめて微笑する。
「でも、お見舞いは出来ないみたいですね。見舞うべき相手が、病室に居ないのですもの」
アンナは、そう続けると目を伏せた。
「だって、運ばれていったのは……見えたのは一瞬でしたけど、その」
アンナは、そこまで話したところで言葉を詰まらせた。対する青年は軽く周囲を見回し、それからアンナの頭を優しく撫でる。
「食堂で、一休みしようか? 院内の食堂なら外に出る必要も無いし……幾らかしたら、処置も終わっているかも知れない」
そう伝えると、シュバルツは膝を折ってアンナの顔を覗き込む。この際、アンナは少し考えた後で頷き、二人は病院内に在る食堂へと向かって行った。
二人が食堂へ向かうと、そこは今まで居た廊下より明るく、白く塗られたテーブルが幾つも並べられていた。また、テーブルの周りには様々な高さの椅子が置かれ、中には花瓶に挿された花が飾られている所も在る。
食堂内の人影はまばらだったが、休憩中と思しき医師や比較的症状の軽い患者の姿も在った。また、見舞いに来た家族らの姿も見え、入りにくい雰囲気は殆どない。
この為、シュバルツは開いている席へ座るようアンナに伝え、自らは注文をする為にカウンターへ向かって行った。程なくして、青年はカウンターで白いプレートを受け取り、アンナの元へ戻っていく。彼が持つプレートの上には二つのカップが乗せられ、それぞれに熱い紅茶と珈琲が注がれていた。
シュバルツは、アンナの前に在るテーブルの上にプレートを置き、それから静かに椅子へ座る。
「飲み物、紅茶と珈琲どっちにする? どっちも、甘くは無いけど」
そう問うと、青年はアンナの目を見つめて微笑んだ。対するアンナは二つのカップを見下ろし、それから紅茶の入った方を引き寄せる。
「じゃ、俺はこっちで」
言って、シュバルツは珈琲の入ったカップを手に取った。彼は、カップに注がれた液体を一口飲むと、目を細めて息を吐き出す。
「ま、こんなもんか」
そう呟いた時、彼の胸ポケットが小刻みに震えた。それに気付いたシュバルツは直ぐに立ち上がり、アンナに向けて頭を下げる。
「ごめん、ちょっと出てくるから待っててね」
それだけ伝えると、シュバルツはアンナの返答を待つことなく食堂を出た。この時、アンナは無言で青年を見送り、目線を落として溜め息を吐く。
部屋に入ったアンナと言えば、そこに居た人数を見て不思議そうな表情を浮かべた。しかし、彼女はその疑問を口に出さず、シュバルツらの居るソファーへ近付いて行く。
ソファーの傍に来たアンナは、神父やシュバルツの前にカップを置いた。アンナが三つ目のカップに手を伸ばした時、神父はアンナの目を優しく見つめ、開いているソファーへ向けて腕を伸ばす。
「座って下さい、シスターアンナ」
神父の指示を聞いたアンナは目を丸くし、動きを止めた。一方、その仕草を見た神父は微笑し、落ち着いた声で話を続ける。
「貴女に話が有るのですよ、シスターアンナ。ですから、先ずは座って下さいな」
その一言を聞いたアンナは、カップの乗せられたプレートを机の端に置き、神父と向かい合う形で腰を下ろした。そして、膝に手を置いて深呼吸をすると、不安そうに神父の目を見つめる。
「詳しいことは、シュバルツから聞いて下さい。私は、彼から知らされたまでですから」
そう言うと、神父は青年の横顔を見つめた。その視線に気付いたシュバルツと言えば、アンナの目を見つめて笑顔を浮かべる。この際、彼の表情を見たアンナは笑顔を作り、そのまま青年が話し始める時を待った。
「えっと……君達の父親のことなんだけど、聞いてから後悔しない?」
そう伝えると、シュバルツは気まずそうに苦笑した。対するアンナは驚きの為か瞬きの回数を増やし、無言で青年の台詞を反芻する。
それから数分後、アンナは胸に手を当てて呼吸を整え、目を細めて話し始めた。
「分かりません。ですが、こう言った形で呼び出す様な内容なら、聞かなければ余計に後悔することになるのでしょう」
アンナは微苦笑し、青年に向けて頭を下げた。
「お願いします、シュバルツさん」
その一言を聞いた青年は頷き、口元に手を当てて小さく咳払いをした。その後、シュバルツはアンナが頭を上げた時を見計らって話し始め、数分経ったところで説明を終える。
話を聞き終えたアンナの表情は暗く、彼女の様子を見た二人も辛そうな表情を浮かべている。そのせいか室内は静まり返り、アンナが話し始めるまで物音すらしなかった。
「返答は、明日にさせて頂いても宜しいですか? その……直ぐには、心の整理が出来ないので」
そう伝えると、アンナは深く頭を下げ、彼女の仕草を見たシュバルツは神父の顔を一瞥する。
「俺は別に良いけど……手遅れになるかも知れないことだけは、覚えておいてね」
そう言って、シュバルツはアンナの目を見つめた。対するアンナは無言で頷き、それを見た青年は細く息を吐き出す。
「神父様は何か有る? 俺と違って、育ての親みたいな立場だし」
シュバルツに問い掛けられた者は小さく頷き、それからアンナの目を真っ直ぐに見つめた。
「シスターアンナ、貴女がそう思ったのなら待ちますよ。私は、貴女を見守る義務は有っても、行動を強制する権利はございませんから」
そう話すと、神父は柔らかな笑みを浮かべてみせた。すると、アンナは神父に対して礼を述べ、対面に居る二人に対して深く頭を下げる。
「話は終わりです。他にやることも有るでしょうし、カップの片付けは私がやりますから、貴女はもう戻りなさい」
そう言うと、神父は笑顔を浮かべてアンナを見つめた。一方、アンナは顔を上げると肯定の返事をなし、ゆっくりと部屋の外へ向かって行く。
アンナが退室した後、シュバルツは気まずそうに苦笑し、神父の横顔を見つめた。そして、彼はアンナの足音が遠ざかった事を確認すると、小さな声で話し始める。
「俺、早まったかな……取り乱しはしなかったけど、かなり衝撃を受けていたみたいだし」
青年は、そこまで言ったところで立ち上がり、神父と向かう合い形で座り直した。そして、先程まで自分の前に在ったカップを引き寄せると、そこに注がれた茶を一口飲む。
「早まった、ということは無いでしょう。重体と言うことは、知らせが遅れれば生きて会えないこともあるのですから」
そう返すと、神父は既に温くなった紅茶へ手を伸ばした。
「第一、何時かは知ることになるでしょう。他人である誰かさんが、気付いた位なのですから」
言って、神父はカップに口を付けた。この時、シュバルツは苦笑しながら後頭部を掻いており、そうしながら神父に返す言葉を模索している。
「それもそう……かな? 本人が気付かなくても、話題に上がることだってあるかも知れないし」
そう言ってから青年はソファーに深く座り直し、天井を見上げた。
「ま、会うか会わないかは本人が決めるんだし、俺は入院先でも調べておくよ」
それだけ言うと、青年は紅茶を飲み干して息を吐き出した。
「報告はこれだけ。長居するのも変だし、俺は帰るね」
青年の言葉に神父は頷き、その仕草を見たシュバルツは立ち上がる。
「じゃ、連絡が来たら知らせてね。あの子らが望めば、送迎くらいは出来るし」
そう言い残すと、シュバルツは今まで居た部屋を出た。この時、一人残された神父は溜め息を吐き、残っていた茶を飲んでカップを片付け始める。
神父に呼び出された次の日、アンナは父親の話を聞いた部屋を訪れていた。彼女の眼前には神父の姿が在り、二人ともソファーに腰を下ろしている。また、ソファーに座るアンナは真剣な表情をしており、それを神父は見守っていた。
「良いのですか? 見舞いは一人だけで」
神父の話を聞いたアンナは小さく頷き、それから胸に手を当てて話し始める。
「はい。あの子と会わせるのは酷だと思うので……先ずは私だけで行って、それから改めて考えようかと」
アンナの返答を聞いた者は頷き、目の前に居る女性の目を真っ直ぐに見つめた。
「分かりました。では、シュバルツに連絡しますから、行ってきなさい。こちらの事は、私が良いようにやっておきますから」
そう言って、神父は笑顔を浮かべた。対するアンナは深々と頭を下げ、掠れた声で礼を述べる。
「では、連絡をしてしまいますね。ここに来るよう言いますから、少し待っていて下さい」
神父は、そこまで言ったところで立ち上がり、笑顔を浮かべてアンナを見下ろした。
「ああ、お手洗い位なら言わずに退室して構いませんよ? シュバルツが、直ぐに来るとも限りませんし」
その台詞を聞いたアンナは小さく頷き、彼女の仕草を見た男性は仕事机の方へ向かった。そして、机の上に有る電話へ手を伸ばすと、受話器を手に取って幾つかのボタンを押す。
数秒待って電話が繋がった時、神父は咳払いをして喉を通した。
「車付きで来て下さい。ええ、お願いしますよ」
神父は、そう言って電話を切り、直ぐにアンナの居る方へと戻って行った。
神父が電話を掛けてから数十分後、彼の居る部屋にシュバルツが現れる。部屋に現れた青年は藍色のスーツを身に纏っており、その手には車の鍵が握られていた。
部屋に入ったシュバルツは、直ぐにソファーの在る方へ向かい、アンナの横に立つなり笑顔を浮かべる。
「お待たせ。準備が出来ているなら、直ぐに行けるよ?」
青年は、そう言うと車の鍵を上方に投げて掴み取った。一方、それを見たアンナは目を丸くし、青年の顔をじっと見つめる。
「えっと……私は大丈夫です」
そう言ってアンナは立ち上がり、それを見たシュバルツは笑顔を浮かべた。
「じゃ、行こうか。病院までは、俺が案内するから」
そう伝えると青年は部屋のドアを開け、アンナに先に出るよう目線で伝えた。一方、彼の視線に気付いた者は足早に部屋を出、ドアのすぐ傍でシュバルツを待つ。
その後、青年はアンナの後を追って退室し、礼拝堂とは逆の方へ向かって廊下を進んだ。
神父の居る部屋を退室してから数分後、彼らは黒い車の停められている場所へ到着する。車の近くに来たシュバルツは助手席側のドアを開け、アンナにそこへ座るよう促した。一方、アンナは青年に促されるまま乗車し、それを見たシュバルツは開けていたドアを静かに閉める。
その後、青年は運転席に座り、発車の準備を始めた。シュバルツは程なくしてその準備を終え、ゆっくり車を走らせ始める。
「直ぐ来ちゃったけど大丈夫? 緊張してない?」
青年は、そう言うとアンナの顔を一瞥した。話し掛けられたアンナと言えば、目を伏せて小さな声で話し始める。
「していない……と言えば、嘘になります」
アンナは、そう言うと目を細め、ゆっくり息を吐き出した。
「別れたのは、十年以上も前のことですし……久しぶりに会った時のこともありますから」
言って、アンナは目を瞑った。この時、彼女の手は震えており、少なからず緊張していることが窺える。
「そっか……そうだよね。俺だったら、逃げてるかも」
シュバルツは、そう返すと微苦笑し、小さく息を吐き出した。
「でも……会わないままでいるのは、もっと辛いのです。楽しかった時の記憶も、残っていますから」
アンナは、そう言うと薄目を開け、青年の横顔をそっと見つめる。
「会って、何かが変わる訳でも無いのでしょう。でも、会いたい気持ちを拭えないのです」
そう加えるとアンナは苦笑し、その目線を前方へ向ける。
「そっか。それなら、会わなきゃだよね」
シュバルツは、そう返すと微笑み、細く息を吐き出した。その後、車内に会話の無いまま病院へ到着し、駐車場に車を停めた青年はアンナの横顔を見つめる。
「着いたよ。病室の番号は414だけど、初めて来る場所だろうし案内しようか?」
シュバルツの問いにアンナは頷き、その仕草を見た者は車のエンジンを切った。
「分かった。じゃ、案内するね」
青年はそう言って車を降り、彼へ続くようにしてアンナも降車する。シュバルツは、アンナが車のドアを閉めたところで車に鍵を掛け、病院の入り口に向かって歩き始めた。
「ありがとうございます。その……一人だと、心細かったので」
そう話すと、アンナは目を細めて苦笑する。そうこうしているうちに二人は病院の受付に到着し、そこで見舞うべき部屋番号を告げた。その後、二人は無言で顔を見合わせ、静かに病室へと向かって行く。受付を済ませた二人は階段を使って四階まで上がり、シュバルツの先導によって目的とする病室へ向かって行った。
二人が、数分を掛けて病室の近くまで来た時、彼らの目的地はやおら騒がしくなる。その騒ぎにアンナは身を強張らせ、シュバルツは緊張しながらも足を進めた。
シュバルツらが病室へ入る直前、医者や看護師らが慌ただしく病室に掛け込み、それを見た者達は足を止める。この時、青年はアンナの方を振り返り、言いにくそうに話し始めた。
「入りにくくなっちっゃたね……覗くだけ覗いてみる?」
青年の提案を聞いたアンナは小さく頷き、その仕草を見た青年はゆっくり病室へ向かって行く。
シュバルツが部屋の中を覗くと、そこにはベッドを取り囲む医師達の姿が在った。医師は、ベッドに横たわる者へ大声で話し掛けるが、患者が反応を示す様子は無い。
そのうち、医師は話し掛けることを止め、看護師らはベッドの端を持って移動を始めた。運ばれていく患者の腹部は赤く染まり、それを見たアンナはその場で膝をついてしまう。
医師達が通り過ぎた後、青年は直ぐにしゃがみ込んでアンナの顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 調子が悪いなら、どこかで」
「大丈夫です……その、ちょっと意識が遠のいちゃって」
そう言って、アンナは立ち上がった。一方、シュバルツは心配そうにアンナを見つめ、彼女に合わせるようにして立ち上がる。
この時、言葉とは裏腹にアンナの顔色は蒼白で、指先は小刻みに震えていた。それでも、彼女は手に力を込めて震えを抑え、青年の目を見つめて微笑する。
「でも、お見舞いは出来ないみたいですね。見舞うべき相手が、病室に居ないのですもの」
アンナは、そう続けると目を伏せた。
「だって、運ばれていったのは……見えたのは一瞬でしたけど、その」
アンナは、そこまで話したところで言葉を詰まらせた。対する青年は軽く周囲を見回し、それからアンナの頭を優しく撫でる。
「食堂で、一休みしようか? 院内の食堂なら外に出る必要も無いし……幾らかしたら、処置も終わっているかも知れない」
そう伝えると、シュバルツは膝を折ってアンナの顔を覗き込む。この際、アンナは少し考えた後で頷き、二人は病院内に在る食堂へと向かって行った。
二人が食堂へ向かうと、そこは今まで居た廊下より明るく、白く塗られたテーブルが幾つも並べられていた。また、テーブルの周りには様々な高さの椅子が置かれ、中には花瓶に挿された花が飾られている所も在る。
食堂内の人影はまばらだったが、休憩中と思しき医師や比較的症状の軽い患者の姿も在った。また、見舞いに来た家族らの姿も見え、入りにくい雰囲気は殆どない。
この為、シュバルツは開いている席へ座るようアンナに伝え、自らは注文をする為にカウンターへ向かって行った。程なくして、青年はカウンターで白いプレートを受け取り、アンナの元へ戻っていく。彼が持つプレートの上には二つのカップが乗せられ、それぞれに熱い紅茶と珈琲が注がれていた。
シュバルツは、アンナの前に在るテーブルの上にプレートを置き、それから静かに椅子へ座る。
「飲み物、紅茶と珈琲どっちにする? どっちも、甘くは無いけど」
そう問うと、青年はアンナの目を見つめて微笑んだ。対するアンナは二つのカップを見下ろし、それから紅茶の入った方を引き寄せる。
「じゃ、俺はこっちで」
言って、シュバルツは珈琲の入ったカップを手に取った。彼は、カップに注がれた液体を一口飲むと、目を細めて息を吐き出す。
「ま、こんなもんか」
そう呟いた時、彼の胸ポケットが小刻みに震えた。それに気付いたシュバルツは直ぐに立ち上がり、アンナに向けて頭を下げる。
「ごめん、ちょっと出てくるから待っててね」
それだけ伝えると、シュバルツはアンナの返答を待つことなく食堂を出た。この時、アンナは無言で青年を見送り、目線を落として溜め息を吐く。