第12話:心配忍者(後編)

文字数 3,077文字

 パソコンのキーボードがカタカタと軽快な音を奏でる。液晶モニターを凝視し書類を作っていく茉莉を透明化したロキソが見つめていた。彼が座っているのはその液晶モニターの上だ。茉莉の真正面に陣取ってはいるものの、彼女の視線はロキソではなくモニター中心部へ注がれている。
 9時の始業から約2時間経過したが、その間茉莉をイジメるような輩は一人もいなかった。だがロキソは一瞬たりとも油断することなく、茉莉へ新しい仕事をふってくる者や、ただ後ろを通り過ぎる者まで、彼女に近づく者がやってくるたび身構えていた。それを気配で感じていた茉莉は、そのたびに小さく苦笑していたことをロキソは知らない。
「……?」
 ふとポーチ片手に立ち上がった茉莉を不思議そうに見上げたロキソは、どこかへ行こうとする彼女の肩に慌てて飛び乗った。茉莉が向かった先は、部屋を出た廊下の突き当りにある女子トイレ。さすがにトイレの中まで連れてはいけないと、茉莉はポーチから取り出したスマホのメモ機能を立ち上げ≪ちょっと廊下で待っててね≫と入力しロキソへ見せた。辺りに人気はなかったが、万が一に備えて会話をせずに筆談を選択した茉莉。ロキソもその意をくみ取り、スマホを持った茉莉の手首まで移動し、己の意見を入力し始める。姿が見えていれば、小さな両手を目一杯使い、液晶画面をペチペチ叩いている可愛らしい様子が拝めただろう。
≪個室に閉じ込められ上からバケツの水ぶっかけられたり出られないようドアに小細工されるかもしれない。危険だからついていく≫
 古典的な嫌がらせの手口を怒涛の勢いで打ち込んだロキソ。その情報源はロボット達がハマっている例の昼ドラだ。『ロキソ達が観てるドラマめっちゃ気になる』と脳内でそわそわする茉莉であったが、すぐさま気持ちを切り替え新たなメッセージを入力した。
≪分かった。じゃあ中で何かあったら大声で呼ぶから助けに来てくれる? それまでここで怪しい男の人が入ってこないか見張っててもらえると嬉しいなぁ≫
 女子トイレなので男性は入ってくることはないのだが、“怪しい人”としてしまうと他の利用者の女性も排除されてしまうと茉莉は考えた。今のロキソにとって茉莉以外の人間は全て敵認定だったからだ。さらに茉莉はトイレの中までの護衛から、外での見張りにすり替えていた。
≪承知した。茉莉が嬉しいなら俺も嬉しい≫
 稚拙な誘導に引っかかるか不安だったが、ロキソはあっさりと騙され茉莉の手首から離れていく。ホッと小さく息をはいた茉莉は、以前自宅でドンがトイレの中までついてこようとした時のことを思い出しつつ、女子トイレへと入っていった。
 茉莉がトイレ内へ消えてから数分後、無事に廊下へ出てきた彼女の足首に、ひしっと何か見えない物体がしがみ付いた。言わずもがな、その正体はロキソである。
「もしかして、寂しかった?」
 思わず声に出てしまった茉莉の問いかけに、ロキソはコクンとひとつ頷いた。それを気配で感じとった茉莉は『甘えん坊具合もドンちゃんに似てるわ』と口角を上げた。

 昼の休憩時間。フロアに残っているのは茉莉含めて3人のみ。しかも残った2人の社員は茉莉からは距離がある席なため、ロキソはステルスモードを解除していた。
 彼は茉莉に入れてもらったハーブティーを飲んでいるが、いまだミニサイズ。自分の腰あたりまであるマグカップを器用に抱き上げ、んぐんぐと中身を飲む姿が何とも可愛らしい。
「美味しい?」
 茉莉はガスターお手製弁当を食べながら、給水器から一所懸命飲む小動物のようなロキソを微笑ましく眺めていた。彼女の問いかけにロキソはマグカップから顔を離しコクンと頷く。
「オレンジピールだから飲みやすいでしょ? おかわりするなら他の味もあるよ」
 自席の引き出しから茉莉が取り出したのは、色とりどりのティーバッグが詰まった箱。ロキソはその中を覗き込み、ある一点で視線を止め、その気になるティーバッグを両手で持ち上げた。
「……茉莉……」
 ティーバッグのパッケージをしげしげと見つめ呟いたロキソに、茉莉の口から『あぁ』と声が零れた。
「それはジャスミンティー。ジャスミンってお花を漢字で書くと“茉莉”になるの」
「……茉莉の味が、するのか?」
「自分を煮出して飲んだことないから分からないけど、多分というか絶対違うと思う」
「そう、か……」
 何故か残念そうなロキソに茉莉は小首を傾げた。
「次は、これ……」
「OK。今入れてくるから少し待っててね」
 結局ジャスミンティーを飲むことにしたロキソからティーバッグとマグカップを受け取り、茉莉は席から立ち上がる。そして当然という雰囲気で肩に飛び乗ってきたロキソに苦笑しつつ、茉莉は給湯室へ向かっていった。
 マグカップを洗い、ジャスミンティーのティーバッグを中に入れ、そこへポットの湯を注ぐ。途端に広がるジャスミンの香りが、茉莉とロキソを優しく包み込んだ。
「……いい香り、だ……」
「そうだね、味も気に入るといいなぁ。はい、どうぞ。熱いから気を付けてね」
 給湯室へ来る前、オフィス内を見渡し、弁当組の様子をチェックしていた茉莉。二人とも既に食べ終え、自席に突っ伏しお昼寝タイムへ突入していたことを確認済みであったため、人目に触れることはないであろうと判断し、こうして給湯室でロキソにハーブティーを勧めていた。それを知ってか知らずか、ロキソは周りを気にする素振りなど微塵もせず、茉莉から受け取ったマグカップを抱えて口を付けた。淹れたてでかなり熱いジャスミンティーを冷まさず飲むロキソを、極度の猫舌である茉莉は羨望のまなざしで見守っている。
 何口か飲んだロキソが、ふとマグカップから口を離し茉莉を見上げた。
「美味しくなかった?」
 何か訴えかけるように見つめてくるロキソへ問いかけると、彼はフルフルと首を横に振った。
「……今まで飲んだ中で、一番――美味い」
 あいも変わらず無表情であるものの、ロキソの周りには小花がいくつも咲いているかのような、ほわ~んとしたエフェクトがかかって見える。どうやら上機嫌のようだ。
「それは良かった。それじゃ帰りにお店寄って、色んなメーカーのジャスミンティー買っていこうね」
 柔らかく微笑む茉莉の提案にロキソは一つ頷いたのち、残りのジャスミンティーを飲み干すべく、再度マグカップへ口を付けた。

 * * * * *

 結局、就業時間まで茉莉がイジメられることはなく、ロキソは『会社は安全――かもしれない。今のところは』と一応納得。帰りに立ち寄ったハーブティー専門店で、大量に購入したジャスミンティーを抱えた茉莉と共に自宅へと戻ってきた。鍵を開け玄関へ入った瞬間、奥から猛烈な勢いでガスター達が駆け寄ってきた。
「ロキソーーー! あんた心配かけて! 茉莉ちゃんにも迷惑かけてぇ! もぉーーー!」
 ガスターはお玉を振りかざし、大層おかんむりなご様子だ。
「おぉ……、二人とも――無事で何より……」
 茉莉と、人間サイズまで大きくなったロキソを交互に抱きしめ男泣きするボルタ。涙を流すロボットかと、また一つ茉莉の常識が崩された瞬間であった。
「……すまない」
「謝って済むことと済まないことがあるでしょう!? とりあえず二人とも手洗いうがいしてらっしゃい! お説教は夕ご飯の後よロキソ!」
 そう言い残しリビングに向かっていくガスターを見送った茉莉とボルタは、互いの顔を見合わせ苦笑しつつ肩をすくめた。怒りの元凶であるロキソはというと『ガスターに茉莉味の美味さを教えてやろう』などと一人呑気に考えていた。
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