第14話:ずぶ濡れパニック

文字数 3,311文字

 出社した茉莉がそろそろ帰ってくる時間。人間サイズに変じたガスターは夕飯の仕上げに取り掛かり、ボルタとロキソは食器の用意やら何やらの手伝いをしていた。
「――あら? 何かしら」
 ふと何かの物音を察知したガスターが料理の手を止め、庭へ面した大きなサッシに視線を向けると、窓の下から小さな三角が二つ覗いていた。ドンが来ていると気が付いたロキソは軽い身のこなしでそこへ近づき、サッシを開けてドンを招き入れる。
 『にゃ』と短く鳴き、リビングのフローリングに飛び乗ったドンは、首から下が泥で汚れていた。それが大層不快らしく、ドンは顔をしかめている。ロキソは彼をいつものように優しく抱き上げると、キッチンにいるガスターへ掲げて見せた。
「あらまあ大変! 泥んこじゃないの! アンタ達お手伝いはもういいから、ドンちゃんをお風呂に入れてあげてちょうだいな」
「御意。……む? 床が汚れてしまったな」
 ドンが降り立った場所には焦げ茶色の梅の花が点々と付いていた。茉莉が見たら『可愛い』と頬を緩ます光景だが、綺麗好きなボルタには見逃せない汚れであった。
「ここを片してから向かうゆえ、ロキソはドン殿を先に湯殿へお連れしてくれぬか?」
 さっと雑巾を取り出したボルタにロキソはコクンと頷き、不機嫌なドンを抱えて洗面所へ向かっていった。

 ドンを洗面台へ降ろし、彼にかからない位置でシャワーの湯温を調整する。丁度良い温度になったと手で確認したロキソは、ドンの耳に入らぬよう慎重にシャワーの湯を全身へかけ流してゆく。湯加減がお気に召したのかドンは気持ちよさそうに目を細め、なすがままになっていた。
 湯が泥汚れを落としていくと、それに伴い徐々に細くなっていくドンのムチムチボディ。最初は気のせいかと思っていたが、湯のかかっていない頭の部分と比べると格段に細くなっているドンの体に戦慄を覚えたロキソは、漆黒の全身をザザーッと青く変化させた。
「~~~~~~~!!」
 声にならない悲鳴をあげながら濡れそぼったドンを抱えてリビングへ急ぎ駆け込むと、ガスターとボルタが何事かと目を丸くした。
「どうしたのロキソ!? アンタ珍しいザリガニみたいに真っ青じゃないのよ!」
「――けた……」
「え?」
 ドンを抱えたまま青い顔で呟くロキソに、ガスターは耳を傾け聞き直す。
「――ドンが……溶けた……!!」
 精一杯振り絞った悲痛な叫びに、ガスターとボルタは彼の抱えているドンへ視線を落とした。ドンの体はいつもの3分の1くらいにしぼんでおり、確かに溶けてしまったと勘違いしても可笑しくはない。だがどう考えても、空気を含んだふわふわな毛皮が湯をかけられてヘタってしまっただけである。
 そう理解したガスターは『あぁ』と納得顔になり、慌てふためくロキソを安心させるべく口を開いた。
「だいじょ―――」
「ぬをおおおおおおおおおーーーーーっ!ドン殿ぉーーーーーーー!!」
 ガスターのセリフを大音量で遮ったのはボルタ。彼はロキソ同様、真っ青な顔でドンへ跪いていた。『あぁ、こいつもか』と遠い目をするガスターであった。
「このような哀れなお姿に! おお……なんという、なんという……」
「俺のせいで……ドンが、溶けた――」
 大混乱するボルタと、今にも膝から崩れ落ちそうにガタガタ震えているロキソ。ガスターが“さてこの二人の誤解をどうやって解こうかしら”と頭を捻っていると、玄関からチャイム音が聞こえて来た。

「茉莉ちゃんだわ!」
 救いの神が来たと顔を輝かせたガスター。そんな彼の横を瞬く間に駆け抜けていく影2つ。
「ただい――」
「茉莉殿ーーーーー!!」
 玄関へ入るなり、ただならぬ様子で駆けよってきたボルタとロキソに一瞬怯んだ茉莉。ボルタなどは茉莉の名を絶叫しながらの見事なスライディング土下座であった。
「二人とも、どうしたの?」
「……すまない、茉莉――」
「えっ」
 ガタガタと震えるロキソから差し出されたドンは、茉莉と目が合うと『ぶみゃ』と不機嫌そうな声でひと鳴き。それはそうであろう。全身ずぶ濡れのままアッチへ連れられコッチへ連れられているのだ。ロキソが通ったあとは、ドンから滴り落ちた水滴でしとどに濡れていた。
「ドンちゃんを、お風呂に入れてくれたの?」
「――俺が、ドンを……溶かして、しまった……」
「ロキソ一人のせいではござらん! 拙者も入浴を任された身! ここは拙者の腹を掻っ捌いてお詫びを――」
「早まらないでボルタさん。大丈夫だから、ドンちゃん溶けてないから」
 腰の鞘から真剣を抜き出し、己の腹へ当てがったボルタを茉莉は冷静に押しとどめた。
「かような時にでも優しいお言葉を……。しかし茉莉殿、この世には許してよいことと許されざることがあり申す。ケジメを付けねば、ドン殿も浮かばれぬ!」
「勝手に亡き者にすんじゃないわよ!」
 キッチンからやってきたガスターは、切腹を諦めないボルタの後頭部をお玉で殴りつけた。金属と金属のぶつかり合いは、カーンというとても澄んだ音を奏でた。

「本当に大丈夫だから。みんな一緒にこっち来て。お願い」
「ぬぅ……」
 渋々刀を鞘に納めたボルタを見届けると、茉莉はいまだ青い顔で震えているロキソからドンを受け取り、3人のロボット達を先導し洗面所に向かう。洗面台にドンを降ろし、適温のシャワーで冷えてしまった体を温める。
 その後、洗面台の下からペット用のシャンプーを取り出し、汚れていた体と、ついでに頭も優しく洗っていく。この間ドンはウットリとした恍惚の表情で喉をゴロゴロ鳴らし続けていた。大抵の猫は体が濡れることを嫌い、風呂などもってのほかである。ドンも無駄に体が濡れることは大嫌いだがシャンプーは大好きという、少し変わった猫であった。
「体を溶かされても上機嫌とは、見上げた根性の猫殿であるな」
 心底不思議そうに感想を述べたボルタに、ロキソがコクンと頷き賛同すると、茉莉とガスターは顔を見合わせ苦笑した。そんなこんなで汚れた泡をシャワーで流し終えると、ガスターが用意してくれたバスタオルでドンを包み、わしゃわしゃと拭き上げる。あらかたの水分が取れると、茉莉は仕上げとばかりにドライヤーの温風をドンへ拭きかけ始めた。
 するとヘタっていた毛皮が徐々に乾き始め、みるみるうちにフワッフワの体に戻っていった。
「おお! ドン殿が元通りに!?」
 感嘆の声をあげ喜ぶボルタ。その横からそっと手を伸ばしたロキソは、ふわふわに戻ったドンを恐る恐る抱き上げた。
「……前より、ふわふわ――」
 ロキソは嬉しそうにドンの腹へ顔を埋めた。ドンは嫌がることもなく、されるがままだ。
「……茉莉、ありがとう――」
「左様。ドン殿の窮地をいとも容易く救うその腕前、まっことアッパレ!」
「そんな褒められることでも。むしろ私のほうがお礼言わなきゃ。2人ともドンちゃんを心配してくれてありがとうね」
 柔らかく微笑んだ茉莉にロキソとボルタは声を詰まらせた。ドンを殺しかけたのに、それを責めることもせず礼まで述べるとは……と。感極まったボルタは己の右腕で両目を覆い隠し天を仰ぐ。武者ロボの男泣きである。『え、涙まで出るの?』と思ったが、空気を読んで言葉には出さない茉莉だった。
「茉莉は……俺の天使だ――」
「なっ、えぇ?」
 ドンを洗面台の端に置き、そっと抱きしめて来たロキソに茉莉は戸惑いの声をあげた。
「今日の昼ドラで、ヒロインが男にそうやって抱きしめられてたのよ……」
 覚えたてのアクションをよく理解せず実践してしまうロキソに、ガスターは飽きれたように溜息をついた。あぁそうなんだと納得した茉莉は、ロキソに抱きすくめられながらもときめくことはなかった。
「ハイハーイ、もう気が済んだでしょ? これから茉莉ちゃんの夕ご飯にするんだから、その前にボルタとロキソは汚した床を掃除しなさい」
 おかんガスターに指示されたボルタは男泣きを切り上げ、さっと取り出したお掃除道具を手に床へしゃがみ込む。ロキソは名残惜しげに茉莉を手放し、ボルタの手伝いを始めた。そしてドンはというと、体を洗われ疲れたのか、はたまた退屈だったのか、くあっと大きな欠伸を一つした。
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