第20話:お隣さん

文字数 3,126文字

 スルスルと自動的にカーテンが開き、寝室の中へ朝日が差し込む。ベッドで仰向けに寝ていた男は、ゆっくりと瞼を開け目覚めた。いつもの癖でベッドサイドの時計を見ると、時刻はAM6:00であった。
 60代と思われるその男は年齢を感じさせない軽やかな動作でベッドから降り、隣室の洗面所で軽く身なりを整えた後、一階にあるキッチンへと向かった。慣れた手つきでコーヒーメーカーをセットし、トースターへクロワッサンを入れ、フライパンでベーコンエッグを作り始める。サラダも用意し全ての朝食が揃ったところでダイニングテーブルに座り、それらを優雅に食べ始めた。モデルルームのようなモダンな部屋には、心落ち着く音楽が自動で流れている。
 ふと部屋の一角へ視線を向けた男は、そこにいるべき最愛のものの姿が今日もないことに、落胆の色を滲ませた。

 朝食を終えた男は食洗器へ食器を入れた後、先ほどの一角へ行き、そこに設置してある器具をキッチンへ持ってくる。猫用自動給餌器と自動給水器の中身を新しいものに変え、再度“愛猫コーナー”へ設置すると、寂しさを振り払うようにその場を後にした。
 洗面所で歯を磨き口髭を整え、別室のウォークインクローゼットから一着のスーツを取り出し着替える。そのダークグレー色のスーツは、ロマンスグレーな男の髪色にとても似合っていた。ネクタイを締め、胸元へポケットチーフを飾り、内ポケットに財布を入れる。手首に白銀色の腕時計を付けた男は最後にスマートフォンを手に取り、玄関へ向かって行った。
 よく磨かれている革靴に足を入れ、靴ベラを使い履いていく。玄関を出た男は、鍵の代わりにスマートフォンを取り出した。アプリか何かの操作をすると玄関ドアの鍵がガチャリと施錠され、自宅のセキュリティも同時に行われた。

「おはようございます。今日は少し涼しいですね」
 ガレージで車に乗り込もうとした男へ、隣人から爽やかな挨拶がかかる。
「おはよう津村さん。もうそろそろ夏も終わりかね」
 先程までの堅苦しい表情を穏やかなものに変え、男は隣人へ挨拶を返した。
「ドンちゃん、今うちに来ていますよ。連れてきますね」
「え、いいのかい?」
「もちろん。ドンちゃんの飼い主さんなんですから。ちょっと待っててくださいね」
「ありがとう……!」
 男は、出勤しようとしていた隣人がわざわざ家の中へ戻っていく様子に心打たれていた。

「あら、どうしたの茉莉ちゃん。何か忘れ物?」
 今しがた出ていったばかりの茉莉が玄関の鍵を開け戻ってくると、ちょうどリビングから出て来たガスターと目が合った。
「ううん。今お隣さんに会えたから、ドンちゃんとお見送りしようかと思って」
「そうなの? ドンちゃんならロキソと遊んでるわよ。ロキソー! ちょっとドンちゃん連れてきて頂戴ー!」
 ガスターに呼ばれたロキソはドンを抱えて速攻やってくると、先ほど送り出した茉莉がいることに気付き、嬉しそうに口角を上げた。
「おかえり……」
「ごめんね一旦戻っただけだから。すぐまた仕事に出ちゃうんだ」
「……そう、か……」
 みるみるうちにションボリしていくロキソからドンを受け取り、茉莉はお隣さんが待つガレージへと足を進めた。

「お待たせしました。ほらドンちゃん、ご主人様だよ」
「おおドンちゃん! 今朝も可愛いねぇ~、可愛いねぇ~」
 茉莉から渡されたドンの顔に頬擦りする男からは、少し前までの凛とした雰囲気が微塵も感じ取れない。ただの猫好きなオジサマであった。オーダーメイドのスーツに猫毛が付こうがお構いなしにデレデレと頬擦りしてくる飼い主の顔を、ドンは迷惑そうに両手の肉球で押し戻している。
「んん~、この艶々プニプニ肉球も可愛いねぇ~、可愛いねぇ~」
 ドンの拒否も男にとってはご褒美だ。こんなに愛でるということは、ドンに会うのは久しぶりなのかというとそうでもない。昨晩はちゃんと本宅で餌を食べ、仕事先から帰宅した男には存分に撫でさせてやっていたドンであった。
「はぁ~、これで今日一日乗り切れる」
 やっと満足した男は、はふぅという恍惚の吐息を吐き、茉莉にドンを返した。ドンの頬っぺたの毛は乱れに乱れ、眉間には深い皺が刻まれていた。ブンブンと左右に振られる尻尾から見て取れるように、ドンは大層ご機嫌斜めだ。
「ありがとう津村さん、いつもドンちゃんの面倒みてくれて助かっているよ」
「いえいえ、どういたしまして。私こそいつもドンちゃんに癒しを貰っていて助かっています」
 茉莉に撫でられドンの不機嫌も徐々に収まっていく。男はそこで腕時計で時刻を確認し、緩んでいた顔を引き締めた。
「大分時間を取らせてしまったね。お詫びに君の勤め先まで送ろう」
「そんな、お気遣いなく」
「遠慮せずに乗ってくれたまえ。道中でドンちゃんの可愛い話を聞かせてくれると、オジサン嬉しいなぁ」
「そういうことでしたら、是非お願いします」
 善意の申し出を無碍に断ることも失礼だと思った茉莉は、遠慮なく送ってもらうことにした。ドンを再度茉莉宅のロキソに返し、隣人のガレージへ戻ると、高級セダンを暖気していた男が助手席のドアを自動で開けた。
「自動ドア凄いですね、タクシーみたいです」
「ははっ、そうかい? じゃあこれはどうかな?」
 ドアの自動開閉に驚く茉莉へ男はニヤリとほくそ笑み、車内のとあるボタンを押した。するとシュゴーという吸引音がし、男のスーツやら顔やらに付いたままだったドンの毛が、みるみるうちに何処かの吸い込み口へと吸い込まれていった。
「凄い! トゥナイトライダーですか? この車キットンなんですか?」
「ははははっ、トゥナイトライダーか。津村さん古い海外ドラマ好きなのかな?」
「はい、大抵のものは見ています」
「そうかそうか。これはドンちゃん以外の話も出来そうだなぁ」
 爽やかに笑い、上機嫌で車を発進させた男。その予想通り、茉莉の会社までの道中はドンの可愛いあるある話や海外ドラマのあるある話で大盛り上がり。あっという間に着いてしまい、挙句まだ話したりないからまた今度送らせて欲しいと茉莉へ願い出る始末であった。

 茉莉を降ろした後、男が車を走らせた先は郊外のとある近代的なビル。木々に囲まれたその白いビルは三階建ての低いものだが、前には重厚な門構えがあり、部外者がおいそれと簡単には入れないようだ。門柱には“薬師寺研究所”と看板が付いている。その門前まで男の車が来ると、それは音もなく左右に開いていった。
 男の車はスムーズに敷地内へと進み、地下の駐車場に入っていく。専用の駐車スペースに愛車を止めると、男は近くのエレベーターへ乗り込みスマートフォンを操作。エレベーターは表示されているボタンにない階まで、どんどん降りていった。スマホの液晶画面には“B32”と表示されている。
 目的の階に到着したエレベーターは、軽い電子音を鳴らしてドアを開ける。男は躊躇うことなく降りていった。エレベーターを降りた先には巨大なモニターが壁一面を覆い、その周りには何かの明かりがチカチカと点滅している謎の機器が所狭しと並んでいた。それらの前には数人が独特な形をした椅子に座り、モニターと睨めっこ状態であった。一見するとSF映画の宇宙船セットのようだった。
「まだ見つからんのか!」
 つかつかと正面モニターまで歩いてきた男は、そこに座っていた主任らしき男に声を荒げた。主任はビクリと体を震わすこともせず、のほほんとした表情で椅子を180度回転させた。
「ああ、おはようございます、ボス」
「だからボスと呼ぶではない!」
 主任を叱咤した男――薬師寺大二郎――が見つめているモニターには、ガスター、ロキソ、ボルタの3人が映し出されていた。
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