第17話 山田剛士の過去

文字数 1,571文字

聖トマス学園長山田剛士の本家は、京都御所至近の歴史深い名家である。
(奈良時代に、東大寺大仏の開眼供養のために中国大陸から渡って来た渡来人の家系で、当時政権中枢の藤原氏と縁を結び平安期に宮中の管弦を司るようになった)

明治維新の後、その当時の先祖が、明治政府の要請を受け、武蔵野に聖トマス学園を設立した。
生徒は、「平民は受け入れず」、皇族関係者、旧大名家、高級官僚の子息を限定して受け入れた。
(原則全寮制)(一学年110人。音楽科50人、文学科30人、法学科30人)
(現在も方針は変えていない)
主に、「音楽」「文学」「法学」分野で、超一流の講師を招き、厳しく高度な教育を施して来た名門学園である。

明治期以前からの山田家の権威や、明治期以降の政権の強い後押しもあり、聖トマス学園に入ること、卒業することは、(宮内庁とも連携していたので)相当高いステイタスとなった。
設立以降、政財界、法曹界に多くの有力者が輩出し、そのネットワークも非情に強いものがある。

山田剛士が、その父から学園長の座を譲り受けた時期は、彼が20代後半(昭和60年代)の時。(それまでは、学園のピアノ講師だった)

いわゆるバブル崩壊の時期だった。
一般企業だけではない、「音楽」「文学」系の企業も、不況に苦しんだ時期の始まりである。
ただし、それでも、宮内庁に関係する聖トマス学園の力は衰えなかった。
自薦、他薦を含め、聖トマス学園への入学希望者は、後を絶たなかった。
定員制、全寮制なので、当然のようにワイロが発生した。
山田剛士は、全くためらわずに、ワイロを受け取った。
(京都の公家の伝統で、口利きにおける金銭受領は当然だった)

また、ワイロは、入学希望の生徒からだけでは、なかった。
名誉ある聖トマス学園講師の職を求めて、講師希望者からも、ワイロを取った。
それも、金だけではなかった。
若い女性の講師希望者には、「カラダ」の提供を「暗に」求めた。
それを拒む者は、採用しなかった。
バブル崩壊で、就職難の時期だった。
現在の日本のような「セクハラ、モラハラ、パワハラ」の概念は、国民全体に希薄。
山田剛士が要求する前に、「自ら」提供を申し出て、採用された講師も多々ある。

また、山田剛士は、「絶倫」の類の男だった。
「強い」だけではなく、「床の技術」も、極めて優れていた。
(彼自身が、京都の本家で数多くの女中に、「技術」を仕込まれていた)
「性的倫理観」も、京都の公家の伝統で、実に希薄だった。
そして高貴な血統と、地位、床の技術と持続力を自慢し、欲しいままに女性を漁った。

その欲望は、尽きることなく、近い血縁もためらわなかった。
「一夫多妻制が、本来の日本の婚姻制度」
「古代日本では、母が異なれば、性愛の対象になった」と強弁した。
香苗の母⦅剛士の従妹⦆も、当然のように何度も抱いた。
(香苗の夫は、婿養子⦅山田家の元使用人⦆で、立場も気も弱かったので、逆らわなかった。

華蓮の母(森本華純)は、美しく優秀なピアニストだった。
剛士は、華純のピアノの腕と「カラダ」を欲しくなったので、珍しく自分から学園の講師に誘った。
しかし、森本華純は、「好きな人がいます」と、頑固に抵抗した。
剛士は、そのような抵抗を認めなかった。
華純の結婚式直前に、強引に拉致して、犯した。
そして、華純の結婚相手(高田)は、その後、ビルの屋上から突き落とした。
(京都出身の応援議員と警察署長にも、金を渡し「自殺」で済ませた)

華純と華蓮の経済的援助は、抜かりなく十分過ぎるほどに行った。
何度も、華蓮を見に行って、ピアノを聴いた。
華純に似た、素晴らしいセンスを感じた。
自らの手で育てたくなった。
本当は山田屋敷に、母子で、引き取りたかったが、華純が抵抗した。
その華純が病死したのは、好都合だった。
誰にも有無を言わせず、華蓮を引き取ることができたのだから。
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