第3話滝口春香

文字数 1,200文字

観月音楽会の終わった夜8時半、月に照らされた広大な聖トマス学園の庭園を、一人の美少女が、夢見心地で歩いている。

制服姿なので、聖トマス学園の女生徒とは、すぐにわかった。
庭園のあちこちに点在するギリシャの神々の立派な像には、見向きもしない。
その美しい顏を曇らせ、ため息をつきながら、ようやく白い石でできた大きなベンチに座った。

しばらくして、か細い声が聞こえて来た。
「やはり華蓮君だった・・・10年ぶり?」
「でも、なぜ、森本?」
「今は、どこに住んでいるの?」

そんな彼女を見掛けた警備員が歩いて来た。
「一年生の滝口春香さんですね」
「K社の新人文学賞受賞、おめでとうございます」
「ここで、新作のストーリーでも考えていたのですか?」
「ですが、学園規則ですので夜9時には、女子寮に入ってください」

滝口春香が素直に頷くと、警備員は表情をやわらげた。
「確かに、あんな演奏を聞けば、簡単には眠れませんよね」
「春香さんだけでなく、あちこちを、まだ歩いている生徒がいます」

滝口春香は、神妙な顏。
「最後の華蓮君」
「実は、子供の頃、隣に住んでいたんです」
「でも、森本なんて姓では、なかった」
「詳しくは言えませんが、事情があって、いつの間にかいなくなって」
「ようやく顏を見掛けたら、森本?」

警備員は、首を横に振った。
「私は警備員なので、余計なことは言えません」
「強いて・・・とならば」
「とある偉いお方の関係とだけです」
「・・・ただ、お近づきは、難しいかと」
「滝口様が幼なじみであっても、そこまでしか」

警備員は、意味深な笑みを浮かべて、滝口春香の前から去って行った。

滝口春香は、警備員の指示通り、夜9時には、女子寮の自分の部屋に戻った。
シャワーで15歳の美しい裸身を洗い、薄めのバスローブ一枚で、広いベッドに転がり込む。

書棚には、「K社新人文学賞」の盾。
しかし、そんなものは、過去のこと、見ようともしない。

しきりに、「森本」華蓮を思う。
「隣に住んでいた時は、高田華蓮だった」
「一緒に泥んこになって遊んで、お風呂に入った」
「あの頃から、メチャ可愛かった」
「幼稚園の人気者で、女の子の人気をひとり占め」
「かなり妬いて、家に帰ってからは、抱き合って寝た」

「華蓮君のお父さんは、もともと、いなかった」
「生まれてすぐに、車にはねられたとか」
「お母さまと、暮らしていた」

「突然、二人とも、いなくなったのは、小学校に上がる前だから、5歳かな」
「私のお母様も、事情を知らなかった」

春香はクラスの違いを悔しく思う。
「私は文学専攻で、華蓮君は音楽専攻」
「校舎も違うし、かなり離れている、だから今まで逢えなかった」
「何とか近づきたい」
「どうしたらいいの?」

不安もある。

「今さら近づいても・・・華蓮君が覚えていないかも」
「覚えていても、迷惑かな、実は」
「音楽科は、美女も多いからなあ」

滝口春香は、そんなことを悶々と繰り返し、眠れない夜を過ごすことになった。
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