第二十六話「人魚姫」

文字数 2,337文字



海辺を歩いている。もう随分と寒くなってきて、しっかりと防寒をしないと風邪を引いてしまう。しかし、とエリーは傍を飛び回るリヒトに目をやる。リヒトはかなり薄着だ。羽根と同化しているかのような不思議な色の服。しかしそれはエリーの用意したものではない。泉に行くと、たまに着替えて帰ってくるのだ。本人も平気そうにしている。寒さは感じないのかも知れない。

「リヒト、寒くない?」

エリーの問いにリヒトは笑顔で答える。寒くないらしい。よかった。

「今日はアンナさんが夕食作ってくれるんだって」

その言葉に、リヒトは興味なさそうな表情をして頷く。食べなくても平気そうなリヒトは、好んでクッキー等のお菓子を食べることはあっても、食事はしないのだ。そんなリヒトに苦笑を返して、エリーは海辺を歩き続ける。

ただの散歩だ。エリーは最近、よく海の傍を歩くようにしている。何かのきっかけで、記憶が戻るかも知れない。焦っているわけではないが、なんとなく、エリーはそうしたいと思った。



「こんにちは」

すぐ近くで声がして、エリーはビクッと身体を揺らした。きょろきょろと周りを見回すが、誰の姿もない。エリーとリヒトは困ったような顔をした。

「こっちよ、こっち」

また声がした。エリーは声がした方を向く。海の方だ。

「やっと気付いた」

そう言って美しく微笑むのは、黒紅色の長い髪を海に浮かべる女性だ。海から上半身を出しながらエリーを見上げている。身体にぴったりと沿っているような、透明なドレスのようなものを着ている。

「こんにちは」

少し間を開けて、エリーは挨拶を返した。しかし表情はまだ不思議そうだ。

「ふふ、人魚は初めて?」

女性の言葉に、エリーは更に目を丸くする。

「人魚、なんですか?」

「ええ、そうよ」

そう言って女性はにっこりと笑う。そして、身体を少し動かし、海の中から尾びれを出して見せた。髪の色と少し似ているが、透明感のある黒紅だ。

「あたし、あんたのこと知ってる。エリー、でしょ」

「は、はい。そうです」

「ふふ、あんたの話、水の都まで届いているわ。海で拾われた女の子がいるってね」

「そうなんですか……」

「ええ、あたし達の間では、仲間なんじゃないかって話だったけど」

そう言って女性は肩を竦めた。

「違うみたいね。あんたは人魚じゃなさそうだわ」

「そうですね」

そう言ってエリーはクスッと笑う。女性はそんなエリーを嬉しそうに見上げている。

「あたしはビアンカ。よろしくね」

「はい。よろしくお願いします!」

ビアンカと視線を合わせるようにして海辺に座り、エリーは元気よく答える。

「今日はね、別にあんたが人魚かどうか知りたくて来たわけじゃないの」

「は、はい」

そう言ってビアンカは、海の中から水晶玉を出し、それをエリーに渡した。

「はい」

「はい?」

水晶玉をじっと見ていると、中から文字が浮かんで見えた。

「フランメに協力してもらって作ったらしいわ。うちの招待状よ。もう十分寒くなってきたから、泡沫祭を開催するの」

「わぁ……もしかして、水の都のお祭り、ですか?」

「ええ、トレーネの祭りは、かなり美しいわよ」

そう言ってビアンカは口角を上げる。

「それは楽しみですね」

「あんたも気に入るわ。絶対よ」

嬉しそうに笑って、尾びれを一振り。

「じゃあそろそろ行くわ。海からの配達ってなかなか大変なのよ」

「お手伝いしましょうか?」

「気持ちは嬉しいけど、遠慮しておくわ。招待状の配達は結構好きなの」

ビアンカはそう言って、身体を動かす。海に沈んでいき、そして再び海から顔を出した。

「じゃあね。泡沫祭で会いましょう」

「はい!」

ビアンカの笑顔を見送り、エリーはリヒトと一緒に水晶玉を眺めた。

「綺麗だね」

リヒトは一生懸命大きく頷く。リヒトも気に入ったのだろう。

「そろそろ帰ろっか」

その言葉にも大きく頷いたリヒト。エリーはにっこり笑って、家へと帰って行った。




家へ帰ると、玄関にアンナの靴が置いてあった。まだ夕飯時ではないが、アンナがもう来ているのだ。挨拶をしよう、とエリーはリビングへ向かう。

「いい加減にしてくれ」

鋭いウィリアムの声が聞こえ、エリーはリビングの手前で動きを止める。そしてリヒトと二人、心配そうな顔をして目を合わせた。

「いい加減にするのはあなたよ、ウィル」

またしても鋭い声。こちらはアンナの声だ。喧嘩をしているのだろうか。エリーはリビングに入ることもできず、その場を去ることもできずに立ち尽くす。

「どういうつもり? エリーにあんなもの渡して」

「俺の勝手だろう」

「妹に指輪をプレゼントする兄なんている?」

「あいつは妹じゃない」

「あの子はエリーよ」

「お前の言うエリーはエリカのことだろう」

「当然でしょ」

「いつまであいつをエリカの代わりにするつもりだ」

「何言ってるのよ。誰よりも代わりが必要だったのはウィルでしょ」

「エリカはエリカだ。他の誰かが代わりになるようなことはない」

「エリーはあんたの妹よ」

「……やっぱり、そういうつもりで名前を」

「当たり前じゃない! あの子はそのために来たの! 絶対そう!」

「アンナ」

「そういう運命なのよ。だから海で倒れていたの。彼女は、あなたの妹の代わりになるためにここにやってきたのよ」

聞いていられない。静かにその場を去り、部屋へ戻る。リヒトは心配そうに見つめている。電気も付けずに、ベッドに腰掛ける。

手の震えが、止まらなかった。
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