第十三話「本」
文字数 4,969文字
最近、エリーは思い続けていることがある。それは、この家にやってきてからまだ一度もウィリアムの本を読んだことがないということだ。書斎に勝手に入るわけにもいかないし、やっぱり本人の直接頼むしかないだろうか。しかしウィリアムが素直に本を読ませてくれるはずがない。
「あの、ウィリアムさん」
「……なんだ」
夕飯を一緒に食べている時、エリーは意を決してウィリアムに頼んでみることにした。
「私、ウィリアムさんの書かれた本を読んでみたいです」
エリーの一言にウィリアムは黙り込んだ。食事をする手も止まってしまっている。エリーは期待を込めた目でウィリアムを見つめている。
「……必要ない」
そう言って食事を続けるウィリアム。エリーは予想通りの展開に苦笑して、同じように食事を続ける。時々「本当にダメですか?」「ちょっとだけでも……」と頼んでみるが、ウィリアムが首を縦に振ることはなかった。
エリーはリヒトと共に街に出ていた。いつもならぶらぶらと街を歩いたり泉に行ってリヒトを遊ばせたりしているが、今日のエリーには目的が一つあった。それは、ダニエルの図書館へ行くこと。そして、ウィリアムの本を手に入れることだ。そんな強い想いを胸に、エリーは街の中をずいずい歩いていた。
「あ、エリーちゃん」
「こんにちは、ダニエルさん」
「こんにちは」
にこにこしているダニエルさん。今の時間は図書館の利用者はあまりいないようだ。
「あの、実は、少しお願いしたいことがありまして」
「お願いしたいこと?」
ダニエルがかすかに首を傾げる。エリーはおずおずと言い出した。
「ウィリアムさんの本を、読みたいんです」
「あぁー」
その一言で全てを察したように、ダニエルは反応した。そしておかしそうに笑った。
「まだ読んでいなかったんだね。ウィルに反対された?」
「反対というか……必要ないと言われました」
エリーの言葉にダニエルは再び笑う。
「ウィルらしいねぇ」
しかしダニエルは少し困ったように眉を下げた。
「でも、ごめんね。エリーちゃん」
「えっと、何がでしょう?」
「この図書館には置いてないんだよ。ウィルの本」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。どうしても知人や友人に本を読んで欲しくないみたいでね」
「そんなに嫌なんですか……」
少ししょげたように言い、あからさまに落ち込むエリーの姿にダニエルはふっと笑う。
「でも偶然、僕は彼の本を持っているんだ」
「え……偶然、ですか」
「偶然、です」
ダニエルが楽しそうに笑う。
「でも、友人としては本人が嫌がっているのに本を渡すわけにはいかないなぁ」
「そ、そうですよね……」
またしても落ち込むエリーの姿に、ダニエルは引きとめるように言葉を続けた。
「実はこの後、買い物に出かける用事があるんだよね」
「そうなんですか?」
突然話が変わったことに目を白黒させながらエリーは聞く。ダニエルは相変わらずの笑顔だ。
「うん。エリーちゃん、よかったらお留守番してもらえる?」
「えっと、私で大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。この時間はほとんど人は来ないし、本の貸し借りはわかるよね? カードの内容をここに記すだけ」
「は、はい。頑張ります」
エリーの言葉にダニエルはふっと笑い、ゆっくりと言葉を続けた。
「じゃあよろしくね。買い物に行って、泉の傍にある大きな石の横にウィルの本を偶然落としてしまってから、すぐに帰ってくるよ」
そう言ってダニエルは手を振って去って行った。図書館に残されたエリーとリヒトはぽかんとしてその後ろ姿を見送る。今、泉に本を偶然落とすと言っていた。
「落ちている本なら……中身を確認する必要があるよね。リヒト」
エリーの言葉にリヒトはうんうんと力強く頷く。ダニエルの粋な計らいだ。お言葉に甘えようとエリーは決めて、留守番に徹することにした。
「ただいま」
「あ、おかえりなさい」
「留守番させちゃってごめんね」
ダニエルは本当にすぐ帰ってきた。袋も持っていることから、買い物をする用事があるというのは嘘ではなかったのだろう。
「はい、これお礼」
そう言ってエリーに渡したのはお菓子屋さんのクッキー。リヒトの瞳が強く輝いた。そしてダニエルはわざとらしく焦った声を出した。
「あちゃー、どうやら大切なウィルの本を泉に落としてきてしまったみたいだ」
あまりにわざとらしい言葉に、エリーは思わず笑ってしまう。そして悪戯を思い付いたような顔で提案した。
「私が探して持ってきましょうか」
「それは助かるよ。またエリーちゃんに留守番をさせるわけにはいかないからね」
そう言ってダニエルはウィンクをする。
「じゃあ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
全てをわかっているような笑顔でダニエルはエリーを見送った。
エリーはリヒトを連れて泉に向かって歩いていく。泉に着くと、確かに石の傍に見知らぬ本が落ちていた。
その本を拾い、エリーはタイトルを読み上げた。
「『空の散歩』……」
リヒトも本を覗きこんでいる。文字は読めるのだろうか。エリーは興奮に頬を赤らめながら、石の上に腰を下ろした。リヒトもエリーの肩の上に乗っている。しかしエリーは本を開こうとして、動きを止めた。
――本当にこれでいいのだろうか。
普通に売られている本なのだから、こうして偶然読む機会があっても怒ることはないだろう。しかしウィリアムは知人や友人に本を見せようとしないとのことだった。エリーに言われた時も即座に断っていた。それなのに、こうして偶然を装って無理に本を読んで、エリーは楽しめるだろうか。何の罪悪感もなくウィリアムに感想を伝えることはできるだろうか。動きを止めたまま動こうとしないエリーを見て、リヒトは首を傾げる。早く読もうよ、とでも言っているようだ。しかしエリーはページを捲らず、本の表紙を撫でた。
「こんなの、よくないよね」
エリーはウィリアムにちゃんと許可を取ってから読もうと決めた。その思いと共に立ち上がり、エリーは図書館へと戻って行く。
「ダニエルさん」
「あ、エリーちゃん。おかえり」
「あの、ダニエルさん」
「ん?」
ダニエルが優しい表情でエリーを見る。エリーは申し訳なさそうな顔で本を差し出した。
「本、落ちていました」
「おぉ、ありがとう」
そう言って受け取るダニエル。そんなダニエルは、やはり全てを見透かしているような顔だ。
「やっぱり私、ウィリアムさんにお願いしてみようと思います」
エリーの言葉にダニエルは更に目を細めた。
「エリーちゃんなら、そう言うと思ってた」
「え?」
「ちょっと待っててね」
そう言ってダニエルはカウンターから離れ、しばらくしてカップを手に持ちながら帰ってくる。
「カフェオレでも飲んで、少し作戦会議でもしようか」
「あ、ありがとうございます」
そう言ってエリーは椅子に座り、カフェオレを一口飲む。温かくて甘いカフェオレだ。
「普通にお願いしてもウィルは読ませてくれないだろうからね。何か作戦を考えないと」
「作戦、ですか……」
「そう。まずはそうだな……必死にお願いするとか」
ダニエルの言葉にエリーは首を傾げる。頼み方を変えれば、読ませてくれるということだろうか。
「どうしても読みたいって気持ちを伝えれば、エリーちゃんに甘いウィルのことだし、読ませてくれると思うよ」
「そ、そうでしょうか」
「うん。後はそうだな……読ませてくれなきゃもうごはん作らないって言うとか」
「脅しですか!」
「はは、それか逆にウィルに好物を食べさせて機嫌をよくしてから頼むとか」
「あ、それはいいかも知れません」
ダニエルの案にエリーは顔を輝かせる。自分だけ本を読んで満足するのではなく、ウィリアムのことも喜ばせたいと思っているのだ。
「でも、ウィリアムさんの好物って何ですか?」
今まで色々な料理を作ってきたが、ウィリアムは何も言わずに淡々と食べてしまう。表情を見ていても気に入ったものや苦手なものはなさそうに思えた。
「ウィルの好物はね……辛いものだよ」
「辛い、もの」
初耳だ。しかしダニエルがそう言うのならそうなのだろう。なにせ、二人は信頼し合っている幼なじみなのだ。
「その作戦でいこうと思います」
そう言ってエリーはぎゅっと拳を握る。ダニエルも真似して笑顔で対応する。
「うん。頑張ってね」
「じゃあ、私買い物をしてから帰るのでそろそろ行きますね。お話を聞いてくれただけでなく、美味しいカフェオレもいただいて、どうもありがとうございました」
「いえいえ。また来てね」
「もちろんです!」
「……ウィルが本読ませてくれなかったら、ごめんね」
意味深な言い方をするダニエルにエリーは首を傾げる。
「読ませてくれなくてもダニエルさんのせいじゃないですよ」
「はは、そうだといいな」
そう言ってダニエルはいつも通りの笑顔でエリーを見送った。
買い物を済ませ、エリーは家で辛い料理を作っていた。本日の夕食は辛い物パラダイスだ。エリー自身は辛いものが苦手なため、ウィリアムの分だけ辛くしていく。味見をしてみようとしても、辛いため美味しいのかわからない。きっと大丈夫、と自分に言い聞かせてエリーは料理を作っていく。ウィリアムの分だけ、どの料理も赤く染まっていった。
階段を下りる音が聞こえ、エリーは振り返った。ウィリアムだ。今まで部屋に引きこもっていたのだろう。その姿を見つけると、エリーは輝くような笑顔でウィリアムを出迎えた。ウィリアムはどことなくエリーの勢いに圧倒されているようだ。
「……帰っていたのか」
「はい!」
料理の並んでいる前にウィリアムを座らせ、エリーも席についた。
「今日はウィリアムさんの好きなものをたくさん作ってみたんです」
「好きなもの?」
「はい!」
得意気に言うエリーにウィリアムはわずかに眉を顰める。
「……好きなものって、なんだ」
「辛いもの、です!」
その瞬間、ウィリアムの動きは止まった。エリーは不思議そうにその様子を見つめる。
「あれ……違いました?」
「誰から、聞いたんだ」
「ダニエルさんですけど……」
不安そうに眉を下げるエリー。ウィリアムは一度咳払いをして、フォークを手に取った。
「……嫌いでは、ない」
そう言って次々と料理を食べていく。その光景にエリーは嬉しくなって、共に夕食を堪能した。
一日中引きこもっていた疲れからか、それとも別の理由があるのか、ウィリアムは少し頭を押さえて水を飲んでいた。
「あの、ウィリアムさん」
そんなウィリアムにエリーはおずおずと切り出す。しかし言葉の続きを待たずに、ウィリアムは無言で部屋を出て行った。何か怒らせるようなことをしてしまっただろうか、とエリーの顔が青ざめる。しかしウィリアムはすぐに帰ってきた。そうしてテーブルの上に置かれたのは、一冊の本だ。
「……あ、あの、これって」
「俺の書いた本だ」
「え、でも、必要ないって」
「どうせあの手この手で読もうとするだろう、お前は」
全てをわかっているような言い方をして、ウィリアムはため息をつく。エリーは胸の高鳴りを感じて、その本を手に取った。
「『妖精と少女』……」
「……変、か」
「え、何がですか?」
エリーの言葉にウィリアムはわずかに微笑みながら首を横に振った。それにしても顔色があまりよくないのは、気のせいだろうか。
「……いつも家事を任せているから、その礼だ」
「……はい! ありがとうございます」
ウィリアムの言葉にエリーが笑顔で返答する。その勢いにウィリアムは再び眉を顰めると、今一度水を飲みにキッチンへ向かった。
タイトルからしてきっとファンタジー物なのだろう。エリーはリヒトと共に読もうと決めて、大切そうに本を胸に抱いた。