第十八話「海の記憶」
文字数 2,229文字
カーテンの隙間から朝陽が覗く。エリーは眠そうに目を擦りながら、身体を起こす。枕にはリヒトが気持ちよさそうに眠っている姿。そんなリヒトを起こさないようにして、エリーは窓を開けた。
爽やかな風がエリーの髪をなびかせる。まだ街には人の気配がしない。きっとまだ早い時間なのだろう。しかしエリーは再び寝ようとせず、どこか上の空で着替えた。着たのは、クリーム色のワンピース。後ろの腰のあたりにリボンが付いている。そのワンピースは、エリーが海辺で倒れていた時に着ていたもの、らしい。アンナが言っていた。風の都にやってきてからはまだ一度も着ていなかった。エリーは亜麻色の髪を梳かし、部屋を出た。リヒトは穏やかな表情で眠っている。
ウィリアムもまだ眠っているかも知れない。エリーはなるべく音を立てずに階段を下りる。そして玄関の扉を開け、外へ出た。
暖かい日差しと共に、少し冷たい風が当たる。エリーは玄関を閉め、まだ誰も歩いていない街を進んでいく。
そして辿り着いたのは、海だ。
エリーは静かに海辺に近付いていく。そして足が濡れない程度の所で腰を下ろす。遠くを見つめるように、海の方へ視線を向けている。わずかに顔を歪ませ、エリーは深くため息をついた。
「……少しくらい、思い出せると思ったんだけど」
エリーは記憶が一向に戻らないことを気にしていた。毎日は楽しく充実しているが、いつまでもウィリアムの世話になるわけにはいかない。彼には彼の生活があり、彼には彼の仲間がいる。少しでも記憶が戻れば、自分の家に帰ることができれば。自分自身を取り戻すことが出来れば。その時はまた改めて自分自身としてウィリアムに会いに行きたい。それに、何より。
「私は、エリーじゃない」
とにかく不安だった。自分が何者なのかもわからず、何故海辺に倒れていたのかもわからず、どうしてこの街に来たのかもわからない。街の人はとてもよくしてくれるし、ウィリアムやアンナ達もすごく優しい。しかしエリーはたまに、もやもやとした不安に押しつぶされそうになる時がある。少しだけでも記憶が戻ってくれたら、どんなにいいか。エリーは再び深くため息をついた。
「……おい」
後ろから聞き覚えのある低い声が聞こえた。振り返ると、そこには機嫌の悪そうな顔をしたウィリアムが立っていた。機嫌が悪そうな顔をしているのはいつものことだが。
「ウィリアムさん」
「何をしてるんだ」
「ちょっと海が見たくなって……あ、おはようございます」
「……ああ」
ウィリアムはやる気のなさそうな挨拶を返し、そのままエリーの隣に座る。エリーは不思議そうにウィリアムを見た。
「ウィリアムさんはどうしてこちらに?」
「……海が見たくなってな」
その返答にエリーはくすっと笑った。
「おそろいですね?」
「そうだな」
そして二人の間に静寂が訪れる。二人はぼーっと海を眺めていた。不思議と不安に思っていた気持ちは軽くなった気がする。一人でいるから、悩んでしまうのかも知れない。
「本当は、ちょっと期待してたんです」
話しはじめると、ウィリアムは無言でエリーを一瞥した。
「私の倒れていたという海へ来れば、少しでも記憶が戻るんじゃないかって」
「……そうか」
「でも、ダメでした」
そう言ってエリーはふふっと笑った。どこか儚げな笑みだ。そしてまた沈黙が続く。
「……この海は、綺麗だ」
次に口を開いたのは、ウィリアムだ。エリーは意外そうにウィリアムの顔を見つめる。
「筆が進まない時はいつもここに来る」
「そうなんですか」
「ああ。お前を見つけた時も、そんな時だった」
そして喉が詰まったように、ごほんと咳払いをする。
「……妖精に会えたのかと、思った」
「え?」
「いや、ちょうど、妖精の、妖精の話を書いていたんだ。その時」
驚いたような顔をするエリーと一瞬目が合う。しかしウィリアムがすぐにまた海へ視線を移した。
「……すまない。今のは忘れてくれ」
その言葉にエリーはふふっと笑った。先程とは違い、嬉しそうな笑みだ。頬もかすかに桃色に染まっている。
「無理はするな。記憶がないのは不安かも知れないが……今はここでの生活を楽しめばいい」
そしてウィリアムはエリーに目を向けた。ずっとウィリアムを見ていたエリーと、目が合う。
「……それじゃあ、ダメか」
どこか不安そうに揺れるウィリアムの瞳に、エリーは首を振った。
「ダメじゃないです」
そう言って笑顔を見せると、ウィリアムはほっとしたように頬を緩ませた。最初はウィリアムの表情を読むことができなかったエリーだったが、最近はわかるようになってきた。と、エリーは思っている。
「……お前は、笑顔が一番似合う」
そう言ってウィリアムは優しく微笑んだ。見つめられたエリーは徐々に顔が熱くなる。それを振り払うように、エリーは立ち上がった。
「そろそろ帰りましょう!」
ウィリアムは少し驚いたようにエリーを見上げ、同じように立ち上がった。二人で海を横目に家へと帰っていく。エリーは深く息を吸った。
「……よろしければ、朝ごはん一緒に食べませんか?」
様子を伺うように聞いてみると、ウィリアムは頷いた。夕食は一緒に食べることが多くなってきたが、朝と昼は基本的に別々だ。エリーは嬉しくなって、楽しそうに微笑んだ。