第四十二話「指輪」

文字数 1,710文字


エリーはぼーっとしていた。何も考えることができない。ただ、自分の上に掛かっている毛布の端を見つめるだけだ。リヒトの姿も見当たらない。皆はもう帰ってしまったのだろうか。今はあまり一人になりたくない。けれど、しばらくは一人にして欲しい。複雑な想いがエリーの胸に宿る。

扉をノックする音がして、エリーはハッと顔を上げる。

「……俺だ」

「ウィリ、アム……さん……」

どこか掠れた自分の声に、既視感。聞こえてきたウィリアムの声に、エリーは今すぐ駆け出して縋りつきたい気持ちになる。しかし、今はウィリアムの顔を見るのが辛かった。

「入るぞ」

「あ……」

扉が開けられ、ウィリアムがいつも通りの無表情で入ってくる。エリーは酷く情けない顔をしているような気がして、ウィリアムから顔を背けた。

「エリー」

名前を呼ばれ、再び顔を上げる。違う。エリーじゃない。


――私は、エリーじゃない。


目の前が真っ暗になるような感覚。エリーは泣きそうな顔をして俯いた。

「……大丈夫か」

頭に乗せられたウィリアムの手が、温かかった。エリーはどうしたらいいのかわからなくなる。何も話すことができない。あのティーナという女性とは何か話をしたのだろうか。自分が何者なのか、思い出す前に伝えられてしまったのだろうか。

「……私は」

掠れていて、震えた声。エリーは深く呼吸をしながら、ウィリアムから顔を背けながら、声を出す。

「……私は、誰だったんですか」

そんなエリーを、ウィリアムが優しい眼差しで見つめている。そんな視線を受け止めることができなくて、エリーは顔を背けたままだ。

「……知りたいか」

やっぱり、聞いたんだ。胸がぎゅっと苦しくなる。できることなら、自分で思い出したかった。自分の言葉で伝えたかった。思い出す気配もなかったくせに、そんなことを思ってしまう。せめて、ウィリアムにだけは。

「……わからないです」

ティーナのことを思い出す。「レイラ様」と言って、彼女は涙を浮かべていた。そんな彼女のことも思い出すことができない。あまりに無力な自分に、エリーは消えてしまいたいと思ってしまう。

「……渡したいものがあるんだ」

ウィリアムが真剣な顔で言う。エリーは顔を上げて、その顔を見る。

「……下で、待ってる」

そう言って、ウィリアムは部屋を去ってしまう。渡したいもの。一体、何なのだろう。エリーは深呼吸をして、立ち上がる。なんだかすごく、嫌な感覚だ。




「……ウィリアムさん」

階段を下り、ウィリアムのもとへ向かう。テーブルの上には、カフェオレが用意されていた。エリーはゆっくり座り、カフェオレを一口飲む。ウィリアムは黙ったままだ。

「……エリー」

「……はい」

ウィリアムは、ゆっくりと手をテーブルの上に伸ばした。その仕草を、エリーが不思議そうに見る。テーブルに置かれたのは、指輪だった。

「指輪……」

「俺の用意したものじゃない」

ウィリアムはそう言って、そして息を吐く。

「……お前が海で倒れていた時に、大切そうに握りしめていたものだ」

その言葉に、エリーは胸が苦しくなる。指輪。海。大切。ふと吐き気を覚え、エリーは口を手で押さえる。

「エリー……」

「……大丈夫、です」

エリーは何度も深呼吸をする。そして指輪にゆっくりと手を伸ばした。冷たいはずのその金属が、どこか温かく感じる。エリーは指輪を見つめる。何も思い出せないが、確かに懐かしい感覚がする。自分にとって、本当に大切なものだったのだろう。

「お前の事、俺の口から話す事はしない」

ウィリアムの言葉に、エリーは眉を下げる。

「……知りたかったら、ティーナという女性に話を聞くといい」

「……彼女は、どちらに」

「帝都だ」

「帝都」

リザの街だ、とぼんやり思う。再び指輪に目を移す。エリーは今、何も考えていない。

「……いつでもいい、行きたくなったら言って欲しい」

「……はい」

「その時は、俺も一緒に行こう」

「……はい」

ウィリアムの言葉に、エリーは切なそうに微笑んだ。
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