白日 Ⅱ

文字数 1,771文字

 宵闇の中、血塗られた扉が開かれる。
 腰に帯びたカレトヴェルフを撫でたゲッツは、大きく深呼吸をした。今宵、多くの血が流される。それは、本来ならば流れなくてもよい血であった。それを知るからこそ、ゲッツは強い気持ちで自身を奮い立たせた。
 前日、将校であるアーチルフ・ルーベンスが率いる軍に、王国軍本営から命令が下された。国境線を密かに侵し、略奪を行うデルーニの傭兵を討伐するというものだった。
 指揮官であるアーチルフを先頭に、粛々と進む兵たち。だが、その胸中には戸惑いがあった。いつもと違う装備を身に付け、デルーニ族と同じ赤い眼になる魔法を施された。傭兵とはいえ、相手は手練れである。そのためにデルーニ兵に扮し、騙し討ちを掛ける作戦だ。そうアーチルフから作戦を伝えられても、兵たちの心は晴れなかった。
 休戦協定が結ばれ、一時帰郷が伝達された矢先の任務だった。やっと家族のもとに帰れると思ったのに、また戦いである。意気消沈するのも無理はなかった。この任務が終われば、一時帰郷が許される。アーチルフの言葉に納得し、兵たちは行軍を続ける。
「あれだ」
 アーチルフが進軍を停止する。緩やかな崖下に見えるのは、灯りが煌々と溢れているイングリッドランド王国ミネイロン州サナルカンド郡の保養地であり、交易町としても有名なマラカナンであった。
「あ、あれは、マラカナンでは…」
 兵のひとりが口にする。どう見ても、デルーニ兵がいる気配はない。マラカナンにいるのは、同じ人間族の民間人である。兵たちの間で、ざわめきが起きる。
「あそこにいるのは、人間に扮したデルーニ兵だ。ああやって王国に溶け込み、要地を占領する、デルーニの新しいやり方だ。汚いものよ。我らの任務は人間に扮したデルーニ兵を討ち、囚われたマラカナン市民を救出することにある。そのために、我らはデルーニ兵に扮しているのだ。ゆくぞ! 躊躇いは捨てろ‼」
 アーチルフが剣を抜く。号令をかけるも、兵たちの足は動かない。それは当然であろう。紛れもない事実が、眼前にあるからだ。
「どうした! 命令に従えないのか⁉ 故郷に帰れなくてもいいのか⁉ この戦いが終われば、お前たちは兵役から解放される。それを約束しよう‼」
 約束。それは戦争の中で、容易く破られるものだった。今、休戦協定を破ろうとしているように。唇を噛んだゲッツは、カレトヴェルフを抜いた。
 鈍い音がする。全員の視線が、音のした方に向けられる。そこには兵がひとり、眼を剥いて死んでいる。傍らに立っているのは、カレトヴェルフの先から血をしたたらせているゲッツだった。
「命令を拒否した者には死を与える。逃亡を企てた者には死を与える。それが軍紀だ。進め! それがお前たちに残された唯一の道だ‼」
 時が一瞬静止した。軍の副官であったゲッツは、いつも兵に気さくに接し、どんな時も兵に寄り添ってきた。そのゲッツが、兵を斬り捨ててまで命じた。その事実が、兵たちに重くのしかかる。
 デュウェインも驚愕した顔で、ゲッツを見つめていた。これが使命である。ゲッツはそれを態度で示していた。
 デュウェインが呻き声をあげ震えはじめた。市民を殺すことは、自分の家族を殺すことと同じだ。臨時徴兵で兵役に就いた彼には、それがよくわかっていた。
「突撃せよ! 皆殺しにするのだ‼」
 アーチルフの号令と共に、兵が突撃を開始する。喊声がどこか虚しく聞こえるのは、気のせいではないだろう。
 兵たちが城門目掛けて駆け出すと、それを見計らったかのように、マラカナンの城門がゆっくりと開かれた。
「よくやってくれた、フェリックス」
 アーチルフが声を掛ける。ゲッツは小さく頭を下げて、馬を進めた。周囲を固めるのはゲッツの麾下三十騎である。
「市民の掃討が済み次第、マラカナンは焼き尽くせとのことだ。逃亡する兵は、残らず斬り捨てる。周囲には王国軍本営の依頼を請けて、常世の密偵も待機している。仕損じることはあるまい。任務終了後、お前は将校に昇進となる。それも覚えておくのだ」
「はい…」
 わずかに俯いたゲッツは、迷いを払うように頭を振った。やがてマラカナンから、悲鳴が聴こえてくる。耳を塞ぎたくなる衝動に、ゲッツは耐えた。
 これが人の成せる所業か。ゲッツの心の呟きは、誰にも届かないまま、ただ身の奥深くに沈殿していった。
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