罪と罰 Ⅱ

文字数 3,969文字

 窓掛の隙間から、陽光が差し込む。白い光は、朝の訪れを告げていた。
 顔に降り注いだ光を受けて、ゲッツがゆっくりと眼を開ける。半眼を開けたまま、寝台から上体を起こした。
「夢か…」
 眉間に手を当てたゲッツは、大きく息を吐いた。胸の奥底にあった傷痕が疼きだす。それは、ゲッツが見た夢と無縁ではなかった。
 迷いを振り払うように、ゲッツは窓掛を開けた。陽射しが室内いっぱいに満ちていく。ゲッツは寝台から下りて、普段着に着替えた。
 ビュルガーの戦いで敗れたヘイムダル傭兵団は、ブライトナー軍と合流してアテン城まで退いた。しかし、ヒュバート戦死の動揺は大きく、アテン城を守り切ることが出来なかった。ブライトナー軍もアテン城から退く際に、シャールヴィ・ギリングによる追撃を受けて、士気を大きく下げてしまった。結局、カリム・ブライトナーの本拠コックスクレイムに退いて態勢を立て直すことになった。
 アフタマート青年同盟とマーナガルム傭兵団は勢いに乗り、ゲルニカの見張り台を占拠。さらに、ゲルニカの見張り台近くにあるブルックン山とヴェンデルシュ山の砦を改修した。相互連携を取れる、ゲルニカ、ブルックン、ヴェンデルシュは、一ヶ所を攻めれば他の二ヶ所から増援が出て、さらに攻撃の際には逆落としで攻められる、鉄壁の防衛線であった。
 わずかの間にここまでの態勢を整えたアフタマート青年同盟とマーナガルム傭兵団の手際を、ゲッツは疑ってかかっていた。如何にマーナガルム傭兵団の団長、アルファード・ヴィニシウスが歴戦といえど、これほどの大規模な戦略を企図し、実行できるのだろうか。両勢力の背後には、もっと巨大な力が潜んでいるのではないのか。
 だがそれを今考えても仕方がなかった。今やるべきことは、奪われたゲルニカの見張り台を奪還することだった。
 部屋で朝食を済ませたゲッツは、兵舎を出てカリムの居館へ急いだ。次にアフタマート青年同盟が狙うとすれば、このコックスクレイムだった。守りではなく攻めを。その点では、ゲッツとカリムの考えは一致していた。
 カリムの部屋に通されたゲッツは、一礼して長椅子に腰掛けた。するとカリムは、長卓の上に書簡を放り出した。意図が読めないゲッツは、一度考えてからカリムの顔を見た。
「援軍を寄越すと約束していた近隣諸侯からの書簡だ。今になって軍備が整わず、出兵できないと言ってきおった。ログレスの方も似たようなものだ」
 深い嘆息を漏らしたカリムは、長椅子に腰を下ろした。その容貌は、戦いが始まる前と比べてやつれていた。窮地に陥ったとしても、臣下の前では決して気弱な姿は見せられない。だが相次ぐ想定外の事態に、カリムも憔悴していた。
「申し訳ございません。私がビュルガーでマーナガルム傭兵団を破っていれば、このようなことにはなりませんでした」
 これは建前ではなく、ゲッツが本気で思っていたことだった。あの時、マーナガルム傭兵団の歩兵を攻め潰していれば、圧倒的に優位な戦況だったはずだ。シャールヴィひとりを止められなかったことで、カリムをここまで追い込んでしまったと、ゲッツは考えていた。
「いや、貴公の責任ではないよ。もともと我らの戦いであるしな。それに、シャールヴィ・ギリングといったか。あのデルーニは恐ろしい男だ。私もデルーニの傭兵を数多く見てきたが、あのような男は初めて見た。諸侯が兵を出し渋っているのも、あの男の武威を恐れてのことであろうな」
 カリムは憔悴していようとも、しっかりと状況を分析していた。凡庸な貴族ならばここでゲッツをなじり、すべての戦いを押しつけているだろう。そうしないのは、カリムもかつてはフォルセナ戦争で一軍を率いていたことに起因していた。
「ともかくこれで我らだけで戦わなくてはいけなくなった。兵の損耗も激しいが、なんとかしてゲルニカだけは奪回しなくてはならない」
「はい」
 しかし、ゲッツはゲルニカ奪回のための有効な手だてを持っていなかった。リブロとも話し合ったが、お互いに良い策を出すことは出来ていない。それだけアフタマート青年同盟とマーナガルム傭兵団が築いた防衛線が堅いということでもあった。
「なかなか私も、良策を捻り出すことが出来なくてな。なにしろゲルニカも含めた三つの砦が相互連携を取るともなれば、どれかひとつを一斉に攻める訳にもいかん。かといって、兵を分散させては砦を落とすことはできないだろう。非常に難しい状況だ」
「まさしく、仰る通りでございます」
 カリムが長卓の上に置かれた鈴を鳴らすと、使用人が茶を運んできた。ちょうど喉の渇きを覚えていたゲッツは、すぐに茶を飲みほした。
「このアピナス郡で戦う古兵がいてな。今は我が軍で小隊を指揮しておる。その男から聞いた話だが、ゲルニカにはひとつ隠し道があるのだ」
 カリムがにやりと笑った。余裕のある笑みに、ゲッツはわずかに首を傾げた。
「隠し道、ですか?」
「うむ。かつては脱出口として使われていたらしいが、ゲルニカの見張り台が整備されていくにつれて、使われることはなくなったそうだ。恐らくデルーニも知るまいて」
 ゲッツが身を乗り出すと、カリムが長卓の上に地図を広げた。ゲルニカ、ブルックン、ヴェンデルシュの位置が正確に描かれ、地形までも詳細に記されていた。
「なに、驚くことはない。勝手知ったる我が領地だ。これくらいはすぐに用意できること。まず、ゲルニカだ。兵力は五千。内訳はマーナガルム傭兵団が一千、アフタマート青年同盟が四千だ。主将はシャールヴィ・ギリング。最も信頼する者を置いたということだな。次にブルックン山。ここは規模がそれほど大きくない。従って守る兵力も少ないな。マーナガルム傭兵団の団長、アルファード・ヴィニシウスが二千でここにいる。最後にヴェンデルシュ。ここはアフタマート青年同盟の首魁エグモント・マンヘイムが四千の兵力で守っている。一番重要なのはゲルニカだということが、すぐにわかるな。だがそのゲルニカを炎上させることが出来れば、ブルックンのアルファードも、ヴェンデルシュのエグモントも動揺するだろう。三つの砦は相互連携を取る。言い換えてしまえば、それはひとつでも砦を失陥すれば、防衛線は機能しないということだ」
  ゲッツは息を呑んだ。フォルセナ戦争で一軍を率いたとは聞いていたが、カリムの戦歴についてはそれほど調べていない。度量の広さと堅実な采配は認めていたが、ここまでの分析力を持っているとは考えていなかったのだ。
「たしかにブライトナー卿の考えは正しいです。しかもゲルニカにシャールヴィ・ギリングを配し、敵は盤石の備えを布いたと思っているでしょう。ですが、そこには大きな落とし穴があります。シャールヴィ・ギリングは野戦で真価を発揮する男です。アルファードも、ブルックンやヴェンデルシュが攻められた際の救援として、シャールヴィにゲルニカを任せたのかもしれませんが、隠し道からゲルニカを炎上させることができれば、シャールヴィだけではなく、ギリング隊を無力化できます」
 カリムが大きく頷いた。絶望という暗闇の中に、一筋の光が射していた。この策を成功させることができれば、間違いなくアフタマート青年同盟とマーナガルム傭兵団、両陣営に大打撃を与えることができる。
「隠し道の地図はあるのですか?」
「ああ。その兵の証言をもとに、複数の密偵に調べさせた。入口はゲルニカの見張り台から一セイブ(一セイブ=一キロと三百メートル)のところにある森林から繋がっている。出口は砦の北西にある倉庫の裏手だ。ゲルニカ潜入部隊は少数で行うことになる。二手に別れて一隊が火をつけ、もう一隊が砦の門を開ける。門までの距離は倉庫から六トール(一トール=九十センチ)だ」
「そして門が開いた瞬間に、ゲルニカと対していた部隊が突入して、ゲルニカを一気に制圧する。火の手を見た時点で、ブルックンのアルファードは負けたことを悟るでしょう」
 問題は誰が、どの役目を果たすかだった。ゲルニカと対するのはヘイムダル傭兵団の役目だとゲッツは思っていたが、ブルックンのアルファードも無視できない存在であると同時に、ヴェンデルシュのエグモントは四千の兵力を有している。
「ゲルニカの潜入と突入。ゲッツ、それを引き受けてくれるか?」
「もちろん、そのつもりでありましたが…」
 ゲッツは言葉に詰まった。しかし、ゲッツの意図を読んだかのように、カリムが笑みを浮かべた。
「私だけでブルックンのアルファードと、ヴェンデルシュのエグモントを押さえられるかと思っているな。心配するな。これまでの戦いで、我が軍はほとんど無傷に等しい。アルファードが二千。エグモントが四千。我が軍五千で見事に押さえてみせよう。自慢ではないが、私の配下にも戦に長けた者がいる。貴公は全力でゲルニカのシャールヴィ・ギリングを討ち取るのだ」
 ゲルニカを炎上させて突入できれば、シャールヴィは袋の鼠と言っていいだろう。精強な騎馬隊を使うこともできず、その力を文字通り封じ込めることができる。千載一遇の好機であった。
「では、私はゲルニカ潜入部隊の選抜を致します。決行はいつにしますか?」
「敵も密偵を放っているだろう。

だからな。明日にはコックスクレイムを進発し、敵軍と対陣しよう。三日後の夜、潜入部隊が行動開始とする」
「わかりました。早速準備します」
 ゲッツは意気揚々と立ち上がった。ゲッツとカリムの眼が合う。お互いに諦めていない。勝利を信じる炎だけが、眼の奥で燃えている。
「ブライトナー卿、勝ちましょう」
「当然だ」
 一礼したゲッツは、カリムの居室を後にした。兵舎に戻るその足取りは、いつにも増して力強かった。
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