第10話

文字数 2,190文字

 曇天の下、丈郎は神社への石段を登っていた。
 シキはコーヒーを飲み終えると帰宅した。丈郎は「送っていく」と言い、駅で別れた。
 別れ(がた)い気がして家を出たが、駅の改札前でシキが振り返った時、ついて行けるのはここまでだと思った。今度こそもう会えないかもしれないとシキの後ろ姿を見送った。結局何も言い出せなかった自分が不甲斐なかった。
 話す準備ができていない。「何をやったんだ」と踏み込まれて動揺した。
 すぐにシキに応じられなかった、率直に打ち明けなかった。できていなかったのは、シキに悪い印象を持たれないために巧く言い繕う(つくろ)準備だった。
 おれがこんなことで思い悩んでいると知ったら、彼女は怒り狂うだろう。丈郎は石段を登りきり、社の方へ歩いていき、家がある左の方へそれる。彼女が追いすがってくる姿を想像する。走れば簡単に置き去りにできた。振り返って姿の有無を確認し、いなければそれでよかった。彼女が視界に現れないことが丈郎の望みだった。
 丈郎は社の裏に立ってみたことがある。枯れた花束が片付けられることなく残っていた。一つだけ。
 この結末がわかっていたら、どうした。その時丈郎は自問した。
 空回りの問いだともう気付いている。彼女の自死は予測できなかった。彼女が「私を見てくれなければ死ぬ」と丈郎に予告したとしても、真剣に取り合うことはなかっただろう。
 それでも彼女の死を止められる可能性はあり、あった以上は止めるのが最善の選択で、止められなかったのは、救えたのに見捨てたのと同じ意味だ。
 そういうことになったのだと、丈郎は彼女の死後に思い知った。
 妙な女生徒につきまとわれて大変そうと、見ぬふりであれ好奇であれ同情であれ、丈郎に敵意を持っていなかったはずの周囲の人々は、皆離れていった。スマホは沈黙し、誰も話し掛けてこなかった。「よく登校できるよな」という声は遠くから投げつけられた。
 それまでの人間関係から排除されたのは自ら招いたことだと、丈郎は思うようになっている。丈郎は意地を張り続けた。彼女の死後も、彼女を(うと)んじ受け入れない態度を変えなかった。周りに自分からメッセージを発したり話し掛けたりもしなかった。彼女に「迷惑だ」と繰り返し伝えても無駄だったように、何を言っても無駄だと思った。「失せろって言ってんだよ」等、彼女に横柄な口をきくのをためらわなかった友人は、暗い表情で黙り込み、丈郎と目を合わせなかった。彼の方がまともで自分は違ってしまったのだと思った。三学期の半ばから通学をやめた。
 安住は、何をやったんだ。シキの声が脳裏に甦る。
 言葉を選んで、準備を整えて、話せたとしても、話せばシキも離れていくだろうと丈郎は思った。シキは刺された被害者だが、丈郎は死なせた側だ。彼女の思いを拒んで死に追いやった。相手にしなかったら自殺したと表現したところで、丈郎がひと一人の死を背負っていることは変わりはない。そして本心では背負う気などない。――話す機会があるとしたら、どんな風に語ってもシキは見抜くだろう。彼女の死を悲しんでいないと。
 多くのものを失った。この結末がわかっていたら、どうした。わかっていたら。わかっていても、彼女を受け入れ、優しく接するなんてありえない。
 元いた場所、シキと神社で出会う前に戻った、そう思えばいい。丈郎は神社の林を抜けて路上を歩いていく。社の下に座っていたシキ、二人で歩いた廃線路の森。駅に佇む姿。台所でコーヒーを飲む静かな顔。目の前で無造作にシャツを脱いで背中を見せた。首筋から肩への線。うつむきながらシャツの裾を直す仕草。もう会わない方がいい。意地を通して孤立するのは構わない。もう馴れた。拒まれて絶望の中に取り残されるより、ただの孤独の方がいい。
 丈郎は足を止める。だが顔を上げて歩き始めた。
 丈郎に拒絶されて彼女は死を選んだ。彼女の絶望に共感しても、丈郎は変われない。束縛されたくない。彼女を死なせていながら自分の正当化をやめられない。誰からも遠巻きにされて孤独になるのは、彼女のようになるのは、当然だ。普通にできないから。
 今更か、丈郎は思う。彼女と自分は似ていた。思いを寄せても仕方ない相手に心をとらわれ、自分は間違っているかもしれないと認められず、(かたく)なで、思い込みから周囲が引くような行動をしてしまう。今更気が付いた。
 もっと早く気付いていたら――それも今更だ。
 彼女は怒り嘲笑するだろうかと空想し、何も残っていないと丈郎は思い直す。彼女は記憶の中にしか存在しない。
 死者は心の中にしかいない。「おれもそう思う」と言ったシキは、背後に怯え、雨音に耳を塞ぐ。自分の内側の闇を外の世界に映している。
 シキのために何かできればいいのにと思う。シキが今より少しでも安らかに過ごせるように。
 でももう会わない方がいい。シキが再び「何をやったんだ」と尋ねてくれることがあったとしても、語れない。彼女を知っていた知人達が暗い表情で沈黙し、丈郎を切ったのは、後ろめたさと重さもあっただろうから、こんな荷物はシキには見せられない。町の誰かから聞く話なら、丈郎に振られた少女が神社で自殺した、それで済んでそれしか残らない。重くはならないだろう。だからもう会わない方がいい。彼女のことだけではない。
 丈郎がシキに何かできるとしたら、負担を増やさないことしかない。
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