第14話②

文字数 1,898文字

「一人暮らしを始めた時、楽なのに驚いた。淋しく感じるものだと思ってた。呼吸が楽になったというか――解放感か。入院中は常に誰かが近くにいたし、その前は親父と、二人だったから」
 丈郎はシキを見たが、シキは丈郎と視線を合わせなかった。
「おれの母は、お腹や背中が痛いと言い出して、病院で診てもらった時には、がんの末期だったんだ。すぐ入院して、おれは茫然としてたけど、親父は動揺して――、まあ、そういうことだ。
 親父が取り乱してる分、おれと母さんは冷静になれた。なるしかなかったんだが。もうすぐさよならなんだ、って。
 親父は、さよならだと認められないまま母さんに死なれたせいか、余計おかしくなった。介護休暇からそのまま退職して、廃人かよ、という状態になった。
 廃人な時はまだいいんだ。そうじゃない時は、自分の弟に説教されて『おまえらは何もわかってない』ってキレたり、理香叔母さんがおれを預かろうかと言ってくれたら『親はおれだぞ』って怒鳴ったり。かと思えば『行かないでくれ』って泣いたり。――『おまえは何で平気なんだ』って、缶ビールを投げつけられたこともあった」
 丈郎は絶句していた。
 シキは天井を仰いで「おれは何が言いたいんだ?」と言った。
 それからカップを手にとり、ゆっくりコーヒーを飲んだ。
「案外うまく入ってるけど、安住が淹れてくれるのより苦いな」
「うん」
「執着の話だった。……一人になってから考えた。親父を狂わせたのは何だったんだろう、と。単純に考えれば、母さんを、妻を深く愛していたからショックが大きすぎたんだろう、と思える。でもあれが愛情か? 泣きたいのは病気になった本人なのに、『何でだ』って泣いて。精一杯のことしてくれてる医師(せんせい)や看護師さんに食って掛かって何になる。申し訳ないし、何より母さんが可哀想だろ。そんなこと中学生にもわかるのに、そんなことすらわからない程、錯乱してる。そんな状態のまま母さんを見送ることになって、廃人モード追加だ。立ち直る気配もない。
 周りが『友世さんが今のあんたを見たらどう思う』とか言っても全然効果がなかった。もう何も見てないし見ようとしない。――大切な人と死に別れた人間が皆、親父みたいになる訳じゃないはずだ。何なんだ、と思った」
「――心の弱い人だったのかもしれない」
「うん。おれもそう思った。だから思った。心の弱い人間は、ひとを愛せないんじゃないか、と。本人は愛情だと思っていても、執着じゃないのか。だから失うのが耐え(がた)いだけで、自分のことしか考えられなくなるんじゃないか」
 丈郎は彼女のことを思い浮かべた。彼女は丈郎に理解と共感を求め、自分を受け入れるように強要したと感じていたが、丈郎に執着したという見方もできる。どちらにしても愛情とは呼べない。
 心の弱い人。おれもそうだと丈郎は思う。だから自分で手一杯で、彼女を排除することしか考えられなかった。彼女だけではない。丈郎の周囲にいた人々も、彼らの心境を思いやることなく、ただ手を切る方を選んだ。
「誰かに執着することは――ひとを、狂わせるのかな」
 問い掛けに、丈郎はシキを見る。シキはカップを手にしたまま下を向いていた。
「一般論だが。誰かに執着したからといって、誰もが、お父さんみたいになってしまうとは思えない」
「……一般論だな」
「でも、そうだろう」
「怖いんだ。おれも誰かに執着したらああなるんじゃないか、って。それに」
 シキは不意に口を閉ざした。
 コーヒーを飲み始めたシキを見ながら、丈郎はシキが何を言い掛けて黙り込んだのか考える。不安を打ち明けても何にもならないと思ったのか。と思い直してしまったのか。しゃべり過ぎたと自制したのか。
 執着した対象を失って狂うかもしれない。それに、執着されても丈郎のように人生を狂わされる。それが思い浮かんだのかもしれない。
 丈郎は不可解な思いでシキを見る。
 以前、理香が「刺されたことを覚えてないのかと疑った」と言ったが、丈郎もそれを実感する。シキは母の病気が判明して以降の父の狂乱を語ったが、その狂気は最後の段階でシキ自身に向けられたのに、そのことには言及しない。
 まだ話せない領域のことなのか。それとも母を(いた)わりながら静かに見送れなかったことは許せなくても、刺されたことは許してしまったのだろうか。
 二人共コーヒーを飲むだけの沈黙の後、丈郎は言った。
「もう一杯淹れるか」
「それを水筒に入れて、あの廃線路に行きたい」
 先月行ったばかりだが、丈郎も行きたくなった。
「行くか」
「でも土曜だから人が多いか。晴れてるし」
「遅い時間に出ればいい。今は日が長いから六時でも明るい」

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