第8話

文字数 1,779文字

 夜の中でシキは目を開けていた。見知らぬ天井の木目が豆電球の光にぼんやり浮かんでいる。
 安住の家は神社を囲む林を抜けた先に建つ古い木造家屋だった。玄関で安住の祖母に出迎えられた。安住に「風呂に入れば」と勧められたのを一端断ったが、朝から歩き回って汗をかいていたし、ひとの家だから躰を清潔にした方がいいと思い直し、風呂を使わせてもらった。
 安住は「叔父のだけど洗ってあるから」と着替えも渡してくれた。
「叔父さんもここに住んでるのか」
「一昨年までは。転勤で名古屋に行った」
 他の家族のことを聞くのは(はばか)られた。安住は先回りして、
「昔は(にぎ)やかだった。母と、叔父と叔母もいて。母は再婚して、叔母も就職して家を出た。おれが小さい頃は父も存命だったから、もっと賑やかだっただろうな」
 誰かが帰省した際の寝室だという和室には、古い鏡台と空のハンガーラックしかなく、旅館の一室のようだった。不在の家族の影も薄れ始めたこの家に、安住は祖母と二人暮らしだ。そうなってしまったのを受け入れているのか、取り残されたように感じているのか、祖母を一人残して出て行けないと思ったのか。
 偶然再会した安住のことは、顔も覚えていなかった。でも「アズミ」の存在は、しこりのように、普段は見ないどこかに残っていた。
 あの教室で。編入生に関心を持って話しかけてくる同級生はいないとわかって安堵していた三日目。出席を取る教師の声に応えるアズミはいなかった。
 欠席だと単純に思った。だが誰とも会話がなくても教室の雰囲気は探っていたから、緊張が走ったように感じた。
 翌日もアズミは欠席だった。もう来ないんじゃないか、何となくそう思った。
 同級生達はアズミが来なくなってほっとしているようだった。アズミの不在が教室で話題になることもなかった。以前から校内で異物のように思われていた奴だったのかもしれないと思った。
 昼休みに他クラスの男子生徒が教室の扉をガラッと開けた。
「アズミ、今日来てた?」
 途端、教室は静まり返った。
 扉の一番近くにいた女子が「昨日から来てません」と小さな声で、はっきり言った。
 扉が閉まった後もしばらく静かだった。やがてぼそぼそと話し声が起こり、そして何もなかったように普段の昼休みの空気に戻った。
 アズミは何かやった奴なのだろうと思った。剣呑(けんのん)な存在だった等、明らかに忌避(きひ)されていたなら気付いたはずだ。こっそり注視されていながら遠巻きにされていた存在だったのではないか。気配を消すことに腐心している編入生が取るに足らない存在として看過(かんか)されるのとは違う、そう感じた。
 アズミの事情に興味はなかった。不在にも馴れた。だが「ここにいるのをやめる」という選択肢があると、アズミの不在が改めて示していた。自分がこの教室から突然消えても、アズミのように、同級生には何も残さないだろうと思った。最初からいなかったように消えられる。
 昔いた町を離れて、新しく来た町の学校から消えて。今は安住の家の天井を見上げている。
 居場所を移動しただけ。自分は自分自身のままだ、自分からは逃げられない。過去の繋がりから追ってくるものからも。駅で逃げてしまったように、これからも逃げ続けるのか。逃げ続けたとしても、会わずにいても、自分が自分である限り、逃げ切ることなどできはしない。自分自身を消してしまわなければ、追われ続ける。そして逃げ続けるのか。
 いつまで。
 いつまで、拒んで、向き合わないで、避け続ける。回避し続けた果てにはきっと何もない。でも向かい合ったら――会ってしまったら、どうなる。自分はその時、どうするだろう。
 自分がどうするのか全くわからないのが無性に怖い。以前はこうじゃなかった。考える前に、いや何も考えてなかった、衝動的だった。どう思われるかなんて意識しなかった。
 どうする。
 どうする、もし会ってしまったら。
 会ったら。
 ――会う可能性のない場所へ、行けばいいのか。
 この町から消えるとか。何処へ行っても自分は自分で、逃げられないなら、自分を消してしまうとか。
 それもいいんじゃないか。
 そうするとしても、ここではない場所で、だ。
 傘を手に佇む安住が思い起こされた。
 安住の目の届かない、そして自分がこの世界から消えたことが誰に伝わらないような場所。
 自分にとってのこの世の果て。終わりの場所。
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