第18話

文字数 2,124文字

 式原純は河原に座っていた。
 昨日亡くなった叔母と時々河を見に来た。車椅子を止めて叔母に日傘を差し掛けると「純は優しいねえ」と言ってくれた叔母の笑顔と口調が亡くなった母によく似ていて、胸をつかれた。
 叔母と同じ施設にいる患者達は「今頃向こうで、姉妹で仲良くしゃべってるよ」と言う。(なぐさ)めようとしてくれてると分かっているが、あの世はない方がいい、死ねばそれきり無になってしまう方がいいと内心では思っている。
 死後の世界は要らない。魂はあるかもしれないが、すぐに消えてしまうといい。見守っていてほしいとは思わない。
 施設の人々には言えない、こんな考え方をするようになったのは、両親の死に方のせいだろう。
 母はがんの診断と同時に余命宣告を受け、ひと月後に逝ってしまった。がんがもたらす苦痛、死への不安、取り乱す夫と中学生の息子を残していく心痛、不意に断たれることになった人生への未練。想像が追いつかない程の思いを抱えて逝っただろう母の魂が、死後も自分たち父子を見守っていたとしたら、(すさ)んだ有様を見て嘆き悲しむ他ない。死と同時に全て終わったと思いたい。
 伴侶(はんりょ)と死別する痛みに、父は心を病んで壊れた。その果てに息子を包丁で刺した。そして弟に殺された。背中に残る父の手の感触。「純」、他は聞き取れなかった。小雨の(ひそ)やかな雨音に消えた(かす)かな声。何を言おうとしていたのだろう。――そこが終わりでなかったら悲惨過ぎる。死後に残るのが立ち直れないままの父でも、母を失う前の自分に戻った父でも。
 たった一人の叔母も逝ってしまった。「人生五十年っていつの時代の話よ、と思うけど、しょうがないか」と自ら言う、気丈な人だった。平均寿命と比較すれば叔母の五十年は短いが、残り時間に、余生に思いをめぐらせ、準備を整えられた叔母を、両親と比べてしまいどこかうらやましく思っている。穏やかな死に方も、数人に見守られながらの静かな臨終も。
 叔母は、たちの悪いがんにとりつかれて治療の甲斐なく人生を終えることには、気持ちの整理をつけていた。自力で出来ることはし終えた、と。寿命を受け入れてやすらかに逝くはずが、唯一の心残りになってしまったのが、甥の自分だった。
 叔母の心配を少しでも減らしたい、そして身内としてしっかりしなければと、平静に振る舞うようにしていたら、施設の職員に「無理しなくていいんだよ」と言われた。不自然に見えるらしい。叔母は「もうなるようにしかならないんだから。純ものんびり過ごしな」と肝の()わったことを言った。五十年生きられたら、時間があれば、母も死に(のぞ)んでこんな風に落ち着けたのかなと思ってしまう。そしてこの()に及んで、叔母のことだけを考えられていない自分に落ち込む。叔母を看取りに来た半月余はそんな風に過ぎた。
 亡くなる五日前。叔母は一枚の紙を見せた。
「私が死んだ時に知らせる人のリスト」
 黙って受け取った。女性の名前が六。一番下は安住丈郎。安住が時々叔母に会いに来ていたことは聞いていた。
「安住君以外は友達。付き合いのある親戚はもういないから放っといていい。同じリストをここの人に渡してあるから、純は連絡しなくていい。ただ」
 叔母は言った。
「この中の誰かが、朋彦さんに懐柔(かいじゅう)されてる可能性はある。SNSやってる知り合いもいるし」
 治療を終了し、この施設で最期を迎えると決めた叔母は、自宅を引き払った。叔父があきらめていなかった場合、叔母の知り合いをSNSを利用して探し出し、情に訴えて、叔母の所在を教えてくれるように頼む、という手段が考えられる。頼まれた相手は親切心から情報を漏らしてしまう――その覚悟をしておけという意味だ。叔父にとって、叔母の臨終は甥の所在を掴む最後の機会だ。
「安住君は、いい子だと思う」
 そんなことはわかってる。
「信じられる人がいれば。何処にでも行けるし、誰とでも戦える」
 逃げるばかりで何処にも行けないし、戦えない。


 空が暗い。夕立が来そうだ。
 また雨か。いつも雨だ。安住の家を出た時も雨だった。
 安住は来るだろう。会いたいのか会いたくないのか、もうわからなくなっている。考え過ぎた。安住は叔母を訪ねてくる度、安否を確かめていたという。でもそれは聞かないと変だと思われる問いで、時候の挨拶みたいなものだ――信じられないのか。二年も経ったから、あんな別れ方をしたから。
 途方もなく孤独を感じる時、安住に葉書を出した。読んでくれてなくてもいいと思った。
 でも自分の気分や都合で一方的に利用していたといえる。もう終わりにしないといけない。
 叔母も逝ってしまった。もう全部終わりにしてもいい、でもまだ後だ。叔母を送る、今それ以上に大事なことはない。叔父が来たとしても、踏みとどまらなければならない。もうなるようにしかならない。
 大きな雨粒が降り注ぎ始める。河原の石が濡れていく。草木が揺れる。もう雨音しか聴こえない。
 立ち上がり、空を見上げる。低い雲の彼方に青空があるのに、雷が鳴った。夏の夕立。見上げれば顔に痛みを感じる程強い雨。
 どうせなら激しく降ればいい。たちまち去る夕立ではなく、嵐になればいい。


 cage of rain 第二章 遠雷  了

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