第14話

文字数 1,578文字

 駅から徒歩十五分程の地域には古い公団住宅が建ち並んでいる。
 戻り梅雨の、朝から降り続く雨の中、丈郎は公団の棟の間の道を歩いていた。
 先週の夕方。シキが働いていた工場の出口で三日続けて待ったが、シキは一度も姿を見せなかった。
 昨日。式原朋彦が言っていた病院に行き、シキの亡くなった母の姉、篠塚理香に面会した。理香から聞いたシキの住所は、駅南で一人暮らしならここだろうと見当をつけていた、公団の一室だった。
 道沿いに植えられた夾竹桃(きょうちくとう)が花をつけている。明るい色の夏の花が咲く道をそれて、丈郎は傘を閉じて棟の薄暗い入り口をくぐった。数段あがった一階の部屋に表札はなかった。インターホンを押したが反応はない。ドアノブをつかんでみると鍵がかかっていなかった。ドアを静かに開けてみた。玄関に一足だけあった靴はシキのものではありえなかった。
 丈郎はドアをコンコンと叩いてから、室内に上がった。
 窓辺に式原朋彦が立っていた。
「きみか。――純なら、入ってこない」
「どうやって入ったんですか」
「開いてた。もぬけのからだった。管理事務所に連絡したら向こうも驚いて見に来たから、部屋にあった鍵を渡した。インターホンの電池が抜かれてるのがわかって、あきれていた」
 雨音だけでなく、外から来るものすべてを拒んでいた、静寂だけを望む暮らし。あの潔さや律義さ、時折見せる強いまなざしの裏の(もろ)さを、支える力になれなかった。
 シキはほとんど何も持たずにこの町に来て、この部屋はずっと空っぽだったのだろうと丈郎は思った。朋彦とは少し離れて窓辺に立った。
 雨が降っている。
 朋彦が「こんな雨の日だった」と語り始めるのを、丈郎は警戒していた。シキの話を先に聞きたかった。
「純が、ここで一人暮らしをしていた訳は聞いていたか」
「親に刺された、とだけ。――記事を読んだ」
「そうか」
 朋彦は沈黙した。
 雨音は絶え間ない。


「避けられてるのに、なぜ会いたいんですか」
 朋彦は「心配だから」と小声で言ってから、
「憎まれて恨まれて、顔も見たくないと思われてるなら、それはそれでいい。会わない方がいい。でも純がおれを避けるのは別の理由だろう。それが何なのかわかれば……」
「わかれば。あなたが納得したいからですか」
「……純が考えてることや心境がわからないままで、このままでいいはずはない。純が普通に生きていけるように何か手を打たなきゃならないが、それを知らないと、純に何が必要なのかがわからない。
 それとひとつ言っておく。おれと純に、もう納得できる答えなんてない。ひとが死んでるというのは、そういうことだ」
 シキと朋彦、二人ともが、互いの重荷を分け合わなければと思っているのかもしれない。
 どちらだろう――丈郎は思う。自分が相手の荷を増やしてしまうのを怖れるか。相手の分を持ち切れないかもしれないと危ぶむか。
 相手と向き合う。誰かに話してしまう。一人で抱え込む。どれを容易と思えるだろう。
 シキともう会わない方がいいと、何度思ったかしれない。時には自分が傷つくのを避けようとして、時には重荷になるのを懸念(けねん)して。そしてシキも「もう会わない方がいいと思っていた」と。
 ひとは重い。自分自身さえ時には持て余す程に。
 丈郎にとって、彼女は振り払うことしか考えたくない程、重かった。彼女は自分が抱えているものを丈郎も一緒にと、切望していた。すれ違い、そして二人とも自分のことしか考えていなかった。朋彦が言うように、納得できる答えなどないが、今ならわかる。別の道があったはずだった。
 こうして空っぽの部屋に佇む以外の、別の道を望むか。ここを行き止まりにするのか。この先へ続く道を探るのか。続きを求めるなら、何処へ向かえばいいのか。
 シキともう一度会える道が見つかったら、その道を躊躇(ちゅうちょ)なく進めるだろうか。
 この雨の中を突っ切って。

 
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