第10話

文字数 955文字

 電車を二度乗り換えて、丈郎は篠塚理香が最後の日々を過ごした施設に向かっていた。
 「これが最後かもしれないね」と穏やかな口調で言い、帰っていく丈郎を見送ってくれた姿が、本当に最後になった。もうすぐ会えなくなると覚悟していたつもりでいたが、喪失感が、丈郎を内側から支えていた何かを崩していく。理香は確かに、丈郎を支えてくれていた。
 シキにも理香は支えだったろうと丈郎は思う。理香はシキの母の姉でたった一人の叔母だった。
 理香が亡くなった今、シキの肉親は、シキの父親を刺殺した父方の叔父朋彦だけだ。シキは彼を避け続けていた。今もそうだと理香は話していた。
 朋彦が婚姻で改姓したことを、丈郎は理香から聞いた。付き合っていた相手との結婚なのか、名字を変えるのを目的にした偽装結婚なのか、理香は知らないと話していた。
 偽装でもいいんじゃないか、丈郎はそう思う。ネットは「人の噂も七十五日」という古い(ことわざ)を無意味にした。丈郎もかつて朋彦の名で検索し、式原家の殺傷事件を知った。
 安住丈郎で検索すれば、丈郎がつきまとう女子高生を邪険にして自死に追いやった人間だと、誰でも知ることができる。それを背負う絶望感と怖れは、同じ立場の人間にしかわからない。社会的制裁を受けて当然の忌まわしい罪を犯したとはいえない朋彦が、デジタルタトゥーから逃れたことを、丈郎は容認できた。だがシキがどう感じるかは想像できない。
 丈郎自身は改名の予定はない。安住姓を捨てようとすれば課題が多い。家族への申し訳なさや未練はないが、改姓したらシキは丈郎を見失ってしまうのでは、「安住」と呼んでくれなくなるのではと考えてしまう。名を変える方が容易だが、亡父がつけてくれた大切な名は変えたくない。悩み始めれば、こんな思いをしてまで改名する理由は何だと考えてしまう。人殺しだと知られたくないからか。誰に。ネットの情報を鵜呑(うの)みにする人間達にか。
 「安住は意地っ張りだから」、シキの声を憶えている。別の時、シキは「周囲にはおまえの意地が伝わらない」と言った。
 頑ななままでは、このままではいけない。でもどうすればいいのかわからない。時だけが過ぎていく。シキと同じ家に暮らした時間も、どうすればいいのかわからないまま過ぎ、終わった。
 「怖いんだ」。
 シキはそう言った。

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