第9話

文字数 1,870文字

 ふすま戸が開く音、そして廊下を歩いていく足音。丈郎はそれらを夢うつつに聞きながら、叔母は今朝は早番かと思い、我に返った。叔母はもうこの家にいない。シキだ。
 階段を下りると、シキは玄関前に佇んでいた。
「おはよう」
「おはよう。――まだ降ってるのか」
「止んだ」
 天気予報は外れ、零時前に雨は止んだ。シキはひと晩中、幻の雨音を聞いていたのか。
「コーヒーいれるけど飲むか」
 シキを台所に誘い、丈郎は湯を沸かしてコーヒーを入れる用意をする。道具を揃え、コーヒー豆を家に常備していたのは叔父だった。道具を残して叔父が家を出た後は粉コーヒーをスーパーで適当に買っている。
 叔父は外で仲間と遊ぶのを好む人だったから、思い出はあまりない。親密ではなかったが「地元が住み辛いなら、名古屋に来るか」と何度か声を掛けてくれた。
 シキの叔父は、ここまで出向いてくる程、シキを案じている。ではシキの親は。同居していると思っていたが不在なのか。リカさんとは誰だ。
 知らないことばかりだ。知ろうとしない方がいいと思うのは、自分のことを聞かれたくないからだ。問われる前に、別の誰かから伝えられる前に、話す――まだできない。まだ距離を測っている。何のために。
「安住は」
 シキが言った。
「ここから離れたいと思ったことは」
「あるよ」
「とどまってる理由は」
「いくつかある。いくつかあるうちの、自分の中で一番大きな理由は、動かされたくないからだ。自分の意志で離れると決めた時に、出て行く。今は、そうじゃない」
「出て行くと負けた気がする、とか」
「勝ち負けではない。勝負にたとえれば、おれはもう負けてる。中退したひきこもりだから。でも誰かの干渉や影響で左右されたくない――されてるとしても、そう思いたくない」
「ここに住んでるのも、一年と二日で学校辞めたのも、自分の意志で選んだことで、他人から強制されたり影響を受けたからじゃない、そう思いたいのか」
「一人立ち前のガキのくせに、か」
「いや。意地を張ってとどまってるんだな、と。でも教室にとどまれるガキどもには、おまえの意地が伝わらない。一緒にいる利点は、確かにあまりなさそうだな。――でも四日目に『安住来てた?』って、他のクラスの奴が来てた。心当たりは」
「一年の時同じクラスだった奴が、消えたかどうか確認に来たんだろう」
 セットしたフィルターにコーヒーをいれていると、シキが「そういう意地はよくない」と言った。
「意固地はよくない」
 答えず、ゆっくり湯を注いでから、丈郎は言った。
「ここにとどまったまま孤立するのに慣れてしまったし、昔の知り合いとは、もう関わらない。向こうもそうだ。それでも教室で過ごす分には問題ないと思ったが、意地を張るのも馬鹿げてる気がしてきた。自分にも周りにもマイナスになるだろう、と」
「安住は、何をやったんだ」
 シキが言った。
 まだ知らなかったのかと思いながら、丈郎は黙ってカップをシキの前に置いた。
「砂糖は」
「いらない」
「おれが同じ質問をしたら、答えられるか」
 丈郎はそう言ってからシキを見た。視線は合わなかった。顔色をなくした硬い表情を見て、自分を守ろうとしてシキを傷つけたと後悔した。謝りそうになり、やめた。謝罪の言葉で罪悪感を(やわ)らげようとするのも、なかったように取り(つくろ)うのも、間違っている。
 丈郎は言った。
「まだ話したくないと思ってたから、聞かれた時の準備が、できてなかった。だからといって、質問で返すのは反則だった」
 詫びは心の中でだけ呟く。謝罪で取り消せることは存在しない。
 シキはしばらく無言だった。
 雨が降り出せばいいと丈郎は思った。この沈黙よりも雨音に包まれてしまいたい。
 シキはカップを手にとり、口をつけないまま、言った。
「準備ができてることなんて、ないんだ。日時が決まってたこと以外は。その時が――、その時が来たら、自分はどうするのか。
 そうなるかもしれないと想像してなかった報いなのに、突然すぎると――、でも突然だったのか?」
 「報い」という言葉に刺されたまま、丈郎は「でも突然だったのか」という次の矢にも射抜かれる。
 シキがカップを置き、立ち上がった。
 うつむいたまま、シキはシャツを半分脱いだ。薄い白い胸があらわになると、シキは躰をねじり、丈郎に背中を向けた。背の右側に直線的な五センチ程度の傷跡があった。
「親に刺された。今はまだそれしか話せない」
 シキは素早くシャツを下ろし、椅子に腰掛けた。
 「何故」を封じられた丈郎は、言った。
「雨の日に」
 シキは黙って頷き、コーヒーに口をつけた。

  
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