第1話

文字数 1,601文字

 安住丈郎(あずみたけろう)は傘を傾けて視線を上げた。
 雨に濡れる神社の石段を一段飛ばしで登っていく。所々欠けた低い石段を子供の頃から毎日のように登り、その歩みが自然な程、いつの間にか背も脚も伸びた。誰かと一緒に登ったのはいつが最後だったか、思い出せない。
 思い出そうとしなくても、雨の日に、小山の頂上にあるこの小さな神社への石段を登ると、あのことを忘れてないと気付かされる。
 石段を登りきり鳥居をくぐれば、正面に社。境内を囲む林。参道の右手だけは木立がまばらで、町が見渡せる。
 普段通り参道から社の左側に向かおうとして、丈郎は立ち止まった。
 社の軒下に人が座っていた。
 あの社で誰かが待っていたのは去年の暮れまでのこと、誰もいないはずの場所の人影に困惑しながら、丈郎は引き返す気になれず歩き出した。
 片膝を立てて社の壁にもたれて座っているのは、丈郎と同年代の少年だった。水を含む玉砂利を踏む音で気付いたのか、顔を上げて丈郎を見た。
 何気なく行き過ぎようとした丈郎は彼に既視感をおぼえた。近づきながら観察する。怪訝そうな眼に見つめられながら記憶をたどり、思い出した。編入生だ。シキハラとかシキカワとかいう姓だった。
 <シキ>は怪訝な表情を険しくして、首を傾げた。丈郎の視線が気に障っていたのか、「何」と、冷たい声で言った。
「同じクラスだった。一瞬だけ」
 丈郎がそう言うと、<シキ>は納得したように警戒の表情を解いて、言った。
「十日は一瞬だよな」
「二日だった」
 丈郎がそう答えると、<シキ>は今度は考え込むような顔をした。
「二週間は通った」
 丈郎も考え込み、思い至った。
「おれは二日でやめたけど、十日でやめたのか」
「やめた」
 思わず顔を見合わせた。
「編入してきてすぐやめたのか」
「ひとのことは言えないだろう」
「そうだな」
「ひょっとして、アズミ?」
 丈郎は頷いた。
「出席番号一番が来なくなったのは覚えてる。――アズミって、長野の安曇野の安曇?」
「違う。安住の地の、安住と書いて、アズミと読む」
「安住の地か」
 そんな場所はない、と続けそうな声と表情だった。
「こんな所で何してるんだ」
「べつに。歩きたかったから」
 <シキ>の口調には隙がなかった。そんな理由で雨の日に傘も持たずここまで登ってきたのか、問い質すのがはばかられた。
「そっちこそ、こんな所で何してるんだ」
「家が近くなんだ」
「静かでいいな」
 <シキ>は立ち上がった。
「中退届、もう出したのか」
「うん」
 未練のない、あっさりした返事だった。
「安住は」
「出した」
「そうか」
 もう話すことがなかった。丈郎は傘をたたんで軒下に入り、傘を差し出した。
「いいよ」
「家はすぐそこだし、返してもらわなくても困らない傘だ」
 差し出した手をのばしたままでいると、<シキ>はようやく傘を受け取った。微かに触れた指先は、雨水より冷えていた。
「ありがとう」
「……元気でな」
 手近な言葉しか思いつかなかった。
 <シキ>は再び「ありがとう」と言うと、軽く会釈して傘を開き、石段の方へ歩いていった。
 多分もう会うことはない。教室で言葉を交わすことなく消えた者同士が偶然出会い、ほんの少しの時間を過ごして傘を渡した。それだけだ。
 <シキ>は石段を降りていき、もう傘の先すら見えない。丈郎は石段に背を向けて、古ぼけた社を避けるように参道を外れ、林の中の踏み固められた道を歩く。
 あの時も雨が降っていた。雨と闇に覆われて、社の軒下から樹々の枝先から大きな雫が間断なく落ちて。
 雨に降られながら、草にからむ水滴に足を濡らして、丈郎は歩いた。六月の雨は躰を凍らせはしないが、本能的に拒みたくなる不快な冷えがしみこんでくる。
 今頃、とうに濡れていた躰の上に傘をさして、シキは家に向かっているだろう。雨の中を感傷のままさまようことを邪魔してしまったかもしれない。
 そんなことを思いながら、丈郎は雨の林を抜けていった。

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