第6話 第1回小豆島オリーブトライアスロン国際大会 (1987年9月13日)

文字数 1,472文字

★ 「ターザン故郷に帰る」

この頃、ターザンはじめトライアスロン関連の雑誌が創刊され、一方では地域振興、町興しとしてトライアスロンがマッチングした時代だった。
すでに宮古島全国トライアスロン大会という成功例が各地方のお手本になり、トライアスロン競技団体もその要請にこたえるマーケティング体制だった。
日本トライアスロン協会(1986年)、日本トライスロン連盟(1985年)の二つの団体が各地での開催を仕切って競い合っていた。ざっくりというと、協会は体協系、連盟は民間商業系、特に連盟の長嶋茂雄会長、松尾副会長の存在は時代を反映してゴージャスだった。
当時は希少だったリムジンカーやヘリコプターで海岸に到着してスタート合図をする彼らの姿に見とれて泳ぐのを忘れてしまいそうになるほど・・・
連盟が主催するショートタイプのレースはフジTVで生中継され、同局のマスコットが中山選手、連動したトライスロンTVドラマも放映されたくらいだった。
で、小豆島はどうだったかというと、
香川県にある小豆島ではあるがも岡山トライアスロン協会の主催だった(香川トライアスロン協会は1989年設立)。マガジンハウス編集部の尽力で、僕が香川県出身だということだけで「招待選手」となった。まるで初心者、それも骨折してプレートで補強しているようなアスリートが招待されたのは、雑誌「TARZAN」の取材協力とのバーターのおかげだったに違いない。
僕は本音では心中戦々恐々としていながら、チームターザンの一員としてふるまうのだった。
岡山の全国キー系列局からテレビ放映もあった、招待選手ということで前日にはテレビカメラの前で抱負を語った、ほんとに恥ずかしかった。


しかし、いまさら逃げ出すわけにもいかず腹をくくって、自分は特別な存在だと勘違いす
ることにした、ナルシスト変じて開き直り(ナオリスト)である。
実家(高松市)から当日出場できるのだが、招待選手なのでホテルに前日宿泊する、同じく招待の前田選手(宮古島優勝)と相部屋だった。
レース当日の印象は、すべからく悲惨であった。



■レレースナンバー⑤(僕のこと)まではスイムスタート優先になった、《どうぞ先頭に出てください》というわけだ。一番不得意のスイム、まして骨折が完治していない。スタートと同時に後ろからの選手に追いつかれ、押され、圧し掛かられる。海面はプールのように穏やかで温かいのに僕はパニックに陥った。何とかスイムフィニッシュしたところで、チェックポイントが大渋滞して大幅なタイムロス、機器も経験も不足していた初回大会には往々にして生じるトラブルだった。
■バイクは周回コースだった、そこで前田選手に抜き去られる際に背中をどやされた、 情けない招待選手だった。
■小豆島まで両親が応援に来てくれた、運動が得意で気丈な母の大きな声が飛んできたが当方元気が出なかった。     
■ゴールのことは本当によく覚えていない、2時間52分21秒だった。
■後日、TV放映のビデオを見た、僕の前日インタビューはカットされていた、そりゃそうだろう。
■唯一心温まる思い出は香川県知事が開催の祝辞中、「ドライアイスロン」とずっと言って
いたこと。
■レース記録の詳細は手元に残っていない
2時間52分21秒、総合165位。             


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