第17話 アイアンマンジャパン IN びわ湖(1990年7月15日)

文字数 1,711文字

★「BATTLE OF BIWAKO」

宮古島から戻ると「アイアンマンジャパン」まで2か月しかない、体を休めるという考えは全くなかった当時、すぐに練習に復帰した。
4月30日トライアスロンクラブSUB3の練習会に初参加し、入会を決意した。
SUB3の練習会は火曜・木曜がスイム、日曜がバイクとランの練習、会員のレベルに合ったグループメニューが用意されていた。
スイムは海老名ニチイ内のピープルで8時から、スイムの得意なメンバーの指導で各種ドリル練習が主だった。六本木のオフィスから定刻に退社してようやく間に合う時間だったので、仕事が残ると参加できなかったし、参加してもいつも空腹の状態でスイム練習していた。 月・水・金の夜は「青山ノーチラスクラブ」でウエイトトレーニング、このジムはチームターザンの時特別優待メンバーにしていただいたが、契約終了後もメンバーに留まっていた、無論費用は自分で払った。
ウィークデーは週に3回早朝ランで6㎞を軽めに走り(26~27分)、それから6時半ごろ出勤した。
ということは、ウィークデーは朝早くから起きて、夜遅く(10時)帰宅し晩御飯を食べてさっさと寝るのが、毎日のパターンとなった。土曜日は3種類のクロストレーニングができる日だった、スイム3㎞、バイク50㎞、ラン15㎞をベースにして、その時不調の種目を集中して補強した。
レースが近づくとバイクのロング練習150㎞を目安に土曜日朝早くから出かけた。
日曜日はSUB3大勢の仲間とワイワイ楽しく練習ができた、ランチも準備され、遠くからの飛び入り参加もあったりして、いつも新鮮な楽しさ驚きがあった。


さて、3回目のアイアンマンジャパン IN びわ湖、
SUB3の仲間たちと大会3日前に彦根に入り、2日間最後の調整に努めた、僕はこの時40歳、エイジグループ(44歳~40歳)では最年少だった。
でも最年少40歳だから有利という保証はどこにもなかった、このエイジグループは一番参加選手も多く能力も飛びぬけていた。
それでも僕はこの巡りあわせを、ベストのエイジで満足いく練習を積んで頼もしい仲間たちと一緒に参加できる巡りあわせを感謝し、自信を持っていた、
《きっとハワイに行く》・・・と。
アイアンマンジャパン IN びわ湖は僕にとっては3回目のレース、コース、運営には十分慣れていた。
目指すのはエイジグループ上位、ハワイへの権利がもらえるのはエイジ10人程度、権利取得者半数がハワイの権利を放棄するとして、20位以内が絶対の目標だった。
参考にしたのは1988年の結果だった、エイジグループ41位で惜しくもハワイ行きに届かなかった。2年後の本大会はトライアスロンブームで参加人数も増えている、苛烈な競争になるだろうと予想していた。


大いに気になるエイジグループの順位はレース中にはわからない、
トランジッションに待機しているSUB3の応援団にそれを問うのも無理な話だった。
僕はひたすら追い抜いた選手、追い抜いていく選手のエイジを気にかけてレースに挑んだ、
いつものナルシストは影を潜め、まったく小心なトライアスリートに徹していた。
実際どうするかというと・・・
特にランの終盤、追い抜かれそうになるとその選手に声をかける
・・・「どのエイジですか?」って。

違うエイジだと《どうぞお先に》と先を譲り、
同じエイジだと、必死でくらいついていった、抜かれまいとした。
狂気のランニングだったに違いない、ゴールした時の全力だった様子が写真に残っている。


11時間18分55秒、総合216位、エイジグループ23位、ハワイ権利放棄者があり、繰り上げでハワイアイアンマンへの切符を手にした。一番に家に電話して喜びを伝えた。
しかしハワイ行の費用をどうするか?
大きな問題が残っていた。
無論ハワイにはいったことなどなかった、その時まで一度も。
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