第25話 第8回 全日本トライアスロン宮古島大会 (1992年4月26日)

文字数 1,077文字

★「君よ バブルの崩壊を渉れ」

ハワイアイアンマンから戻ってからの僕の人生は急流ラフティングの如し、あれよ、あれよという間の展開、11月末に円満に退社、転職が決まった、厚生年金手続き上でいえば次は5社目の勤務先だった。
12月22日が正式な退職日、新しい職場には1月からだったので、12月初旬に最後の社内旅行でソウルへ、1月中旬には新しい会社の社内旅行でケアンズに、いずれも海外旅行。
うまい話には注意しろ・・・と神様のお告げのとおり、これからの厳しい生活を暗示していた。

1992年はあの日本経済バブル崩壊(1991年~1993年)の真っただ中。
そんな時期の転職、そんな時期だからこその転職だったのだろうが、新しい職場には
最初から違和感が付きまとっていた。
社長とは古いお付き合いで、その人柄も知っていたつもりだが、バブル不況の中で人間の本性が溶け出してきていた。
「リーダーの品格」の重要性は2018年現在の政治的カオスと同様、その集団、組織、コミュニティに影響し、存亡の鍵となる。
これから約9年間、僕は仕事以前の組織弊害に悩み疲弊していく。

閑話休題、
1992年は新しい職場での孤軍奮闘ストレスに並行して、新しい住宅が完成、妻のご両親と
の2世帯介護生活が始まる。そんな折に、有り難いことにまた「宮古島」行の切符をいただいた、三回連続の当選だった。
ところで宮古島では東急リゾートホテルが一番人気だったことは、すでにお知らせした。
スイムスタートがホテルのプライベートビーチからだった、高額料金にも関わらず申し込
みが多くすぐに満室になっていた。
要求あるところに解答あり・・・・というわけで、JALツアー公式募集前に航空券・ホテル
手配をする代理店が現れる。そこでまたまた、SUB3ツアーコンダクターである僕の出番となった、記念すべき『SUB3宮古島ツアー』 第1回が稼働したのだった。これ以降、SUB3ツアー担当となる、少しでもクラブに恩返しができたかな。


残念なことに、転職と新しい職場での軋轢、新築引っ越しなど、生活面での不安定はボディブロウのように精神に影響し、トレーニング量の低下につながっていた。
トレーニングの低下は確実に体力をも劣化させてしまっていた、ここにきて初めての「後退」を感じていた。宮古島の結果は過去3回の最悪だった。


10時間19分36秒、総合209位、エイジグループ22位。

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