第67話 第27回全日本トライアスロン宮古島大会(2011年4月24日)

文字数 2,160文字

★「049 危機一髪」

2004年、7年前リタイアして以来ずっと思い詰めていたのは、
最後にもう一度「宮古島」を完走すること。
「宮古島」には65歳定年制があることも僕を強迫していた。
僕はと言えば度重なる故障でロングから逃げ、
FUN TRAIASTHLONを標榜したここ数年だった。

そこに致命的な坐骨神経痛を発症、
あと残された時間が無くなっていくのが体内時計でも刻々と実感できた。
(本当の致命的な故障はこの後やってくるのだが・・・)
強い思いを込めエントリー、宮古島の友人にも応援を求めた結果、
2010年末、出場当選の知らせをいただく。



完走が目標だった、嘘偽りのない本音だった。
そのためには失われたスタミナ(持久力)を取り戻すこと、
坐骨神経痛を悪化させないこと、
この二つを最優先させた準備期間だった。

まずバイクトレーニングでロングライド(150㎞)に慣れることから開始。
忘れていた冬のバイク練習のつらさを改めて思いだした、特に2011年は寒い冬だった。
1月:120~130㎞を三回、 2月:160㎞を2回、
厚木の工業団地周辺、上依知平地でのトレーニングだった。

そして3月11日大震災が起きる。
当日は会社内にとどまったがその後3月16日まで地震欠勤を余儀なくされた。
父の米寿の会に家族全員が集まってくれたのは3月13日、
前々からの行事だったので敢行した。




「宮古島」は中止になるのか?

だが東日本大震災被災者から大会開催の要請の声が上がった。
地震直後はイベントの自粛が多数あったが、
そのあと「意味のないイベント自粛はやめよう」という世論になった。
とはいうものの余震の続くなかでトライアスロンを純粋に楽しむには複雑な思いがあった。
僕はしかし「宮古島」完走の怨念のような恥も外聞もない決意で
いろいろな雑音を遮断してレースに臨んだ。

3月のバイク練習:山中150㎞を3回済ませて宮古島に備えた。
3月11日以来余震が頻発し、計画停電なる愚策が文字通り僕の生活を真っ暗にした。
停電中、交差点で危ない目にあったのはラン練習の時だった。
放射線物質が降り注いでいることにその時は気が付いていなかった。
日本ブランドがどんどんと失墜していた。
仕上げの1か月間、地震のストレスと練習疲れから体調を崩してしまった、
風邪を引いたのはレース1週間前だった。鼻水、咳が止まらない声が壊れてしまった、
コンディショニングの失敗だった。

木曜日に宮古島着、「うなぎたいよう」にあいさつに立ち寄る、
一歳年上のアグ(友人)が新設の海中水族館に案内してくれた、
宮古島も大きく変わっていた。
風邪は完治していなかったが、薬(市販)はやめていた、
木曜日・金曜日ともに公式行事以外はホテルで寝ていた。
しかしこれではどうにもならないと思い至り、
レース前日の土曜日もう一度薬を買い求めて服用する。
食事の代わりに当地の病人食「ミキ」を飲んでひたすら回復に努めた。
バイク預託で東急リゾートに行く、そこで杉下さんに偶然会う。
彼は初ロング、初宮古島だった。




7年ぶりの「宮古島」は一人旅、SUB3のツアーはもうなかった。
JALツアーでは相部屋制度もなくなっていた。
僕はアト-レ・エメラルド宮古島ホテルにツインのシングルユースで泊まっていた。
フェリーが発着する港に面したホテル、窓から伊良部島が見えた。



ホテル内の宮古島料理店の懐石料理に泡盛がすすむ(アフターレースのお話ではあるが・・)



7年ぶりにロングトライアスロンのスタートに立った、
12回目の「宮古島」、
大会史上ベストの天候になった。
強い風は相変わらずだったが、波のなく気温も湿度もベストコンディションだった。
久々のロングディスタンス、風邪と地震ストレスからくる低迷した体調、
ラン後半から体力が一気に衰えてきた。
ペースが落ちてきて元に戻せないまま残り7㎞地点で、沿道の応援者のささやきが聞こえた。

「このあたりはゴールぎりぎりだな・・」

そこまで遅くなっているとは気づかなかった。
目標は完走、そのためには残り5㎞を自分で「ダッシュ」と思える走りに変えた、
周りから見れば歩いているのと変わらなかったかもしれないが。

「宮古島」の競技制限時間が30分短縮になり13時間30分に変わっていた。
12回目ともなるとコースはよく知っている、
残り2㎞地点で本当に間に合わないかもしれないと覚悟した。
13時間26分過ぎに競技場にたどり着く、一周400mを全力疾走する。
一緒に競技場に入った地元高校生選手は待っていた友達と輪になって喜んでいるが走らない。
トラックを全力で走ってゴールを目指すのは僕だけだった。
ゴールタイム13時間29分11秒、制限時間まで《残り049秒》の危うさだった。

ゴールでは元SUB3、宮古島在の米田さんが待っていてくれた、ありがたいことだ。
彼の車でホテルまで送ってもらう、その間に聞いた話・・・
・・・競技場に入った時点でゴールしたものとみなすということ、
競技場の門が13時間30分で閉ざされる、
つまりあとはゆっくり走ろうが歩こうがタイムは13時間30分になる。
道理でみんなトラックでは走らないわけだ。
知らないからこそ完走するため全力を振り絞ることができた、
49秒という貴重な残り時間ができた。

そして、僕は61歳のSTRONG MANになった。







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