第10話 アイアンマンジャパン イン びわ湖 (1988年7月17日)

文字数 3,380文字

★「名誉とナルシシズムのためだけでなく」

マガジンハウス企画「チームターザン」が掲げた大きな目標「ハワイアイアンマン」に出場することを達成した女子選手、できなかった男子選手。
しかし、契約延長でもう一度ハワイのチャンスが巡ってきた。
男子選手の中でタケちゃんはショートタイプに専念することに、イマイくんは社会人一年目の仕事先都合で活動休止状態になっていた。残った僕はハワイアイアンマンに出ることが使命であり夢でありすべてだった。
5月~7月のトレーニングメニューを白石トレーナーが作成してくれた、軽いようで厳しい内容だった。休養を充分取り入れ、それでいて追い込みは徹底していた、ラン10㎞を35分・・・というメニューがある?!僕のベストタイムは39:00なのに。


1月から7月レースまでのトレーニングメモが残っている:
《1月》
1月8日抜鋼手術、18日抜糸。回復のために必要な手術とはいえ、1月はRUN 中心の練習となる。SWIM はまるまる1か月休む、BIKEは万一の落車を考えてロードには出ず室内でペダルを回すにとどめた。ピン4本分の穴が埋まるのには4月いっぱいかかるが、その間骨の強度が足りないから。
《2月》
そろそろ本格的に練習を・・・と思っていたが、前半は仕事が忙しくそのために体調を完全に崩してしまう。胃痛で食事がとれない日が続いた。後半復調に伴ってようやくSWIMをスタート、ピンを抜いた後の右腕の軽やかな動きに感謝する。ノーチラスでのウェイトトレーニングも毎回が楽しくなった。BIKEはロードを敬遠したまま、「寒いのが嫌い」という理由で自分を誤魔化すほど精神状態が落ち込んでいた。7月のびわ湖はまだ遠く、4月の宮古島には未練が多すぎた。
《3月》
8日に久しぶりにマラソンを走る(明日香ひな祭りマラソン)、3時間18分は悪コースの割にはまずまず、これは距離練習のひとつとして取り入れたのだが、どうもこれ以上の進歩はないようだ。宮古島を忘れ気を取り戻しBIKEロードに出た、とりあえずライディングの感覚を取り戻す、SWIMはスピードも出て練習の成果が見られる。
トレーニング量が増え疲れが目立つようになった、自由時間のほとんどを練習に使う生活パターンができつつある。
《4月》
3日、10日の大井埠頭でのBIKE合同練習、9日のSWIM合同練習でチームメイトに逢い刺激を受ける。10日に白石コーチからメニューを貰う、当分の間スピード練習中心の内容だった。自分で考える練習メニューの内容の低さにうんざりする。もっとも練習の変化はこの時期にタイムリーだったのは、ちょうど精神的な不満が自分を押しつぶしそうだったから。
何も考えず白石トレーナーのメニューをこなすのは楽しかった、与えられたメニューは手抜きなくこなした、これは「びわ湖」直前まで続けられた。
白石トレーナーのメニューは当初量的に多くなく楽に思えるのだが、毎日の連続性のなかで意外とハードになってくる、それも4月末には慣れてきた。
生活のフリータイムをトライアスロンに費やすことがパターンになりつつあったが、その中に欲が出てきた。もっと時間を使えないだろうか?という欲望は何とか抑えることができた、社会人としての限界を超えるつもりはなかった。しかし、よりハードなトレーニングに立ち向かう「心」が欲しいと願った、この心はいまだに我が物になっていない。
《5月》
4月29日から5月8日までのゴールデンウィークはすべてトレーニングに使い、優先させた。1日1種のユニークなトレーニングだったがハード、この間はプロのトライアスリートになったような徹底ぶりを面白がった。その後2回週末に追い込みの山場を作ってスピードから距離に重点を移していった。
SWIMは記録が伸びず、RUNもスピードが伴わず、トレーニングの結果としては満足できるものではなかったが、BIKEは着実に距離を延ばすことができた。
《6月》
1日から11日まで海外出張、それも移動が多くジョグすらできないかった。5月末までハードなメニューをこなしているから心配ない・・・と白石トレーナーは約束してくれたが、この間不安だった。
12日から再びハードメニュー、スピードは維持されていたが持久力に問題が残った、19日、26日、7月3日とBIKE の仕上げができたという自信はレースで役立った一方、SWIMの自信の欠如は最終段階で不安につながるためSWIMのスピードアップは断念し体力温存型SWIMにすることにした。RUNはBIKE練習の影響で、練習不足の不安が残った。
《7月》
3日以降は調整、BIKEは短い距離のアップダウン、SWIM はウェットスーツに慣れる練習、
RUNは耐暑トレーニングを試みたがあいにく太陽不在で果たせず。
カーボローディングは教条的なものは避け気楽にカーボ類を取った、この1年常に食事に気を配ってきたから不安はなかったが、ジンクスとしてゲータレード280を摂る、良好な調整ができた。



《 7月17日 レース当日 》
この年初めてにして第一目標のレース、ここをパスしなければハワイは見えない。
なんとしても行きたい気持ち、でも難しいという不安に揺れ動きながら、すべてできることはやったという一種到達感のような平和な気持ちになっていた。
各パートの目標タイムはできていた:
SWIM 1時間12分  BIKE 5時間15分  RUN 2時間40分
合計すると9時間を少しオーバーするが誤差±3分で総合150位、
戦略は「予想タイムのペースを守り決して焦らない」
【 SWIM 】
スタートバトルが嫌で、ついつい想像して前夜眠れなかったが気分は落ち着いていた。
30分前にスタート地点についてあっという間のスタート、昨年と違って最前列から出発した、
近くに優勝候補のスコット・ティンリーの姿も見えたが、すぐにかなりの人数に抜かれてしまった。SWIMは無理せずプルのみでイーブンペースを守り苦しさを感じないまま、1時間10分で水から上がったときも足元はしっかりしていて、バイク・トランジッションまでに10人ほど追い抜いた、が残っていたバイクの数を見てショックを受ける。
約半数がもういない、計算違いかなという焦りがあったが身体は全く疲れていない。
【 BIKE 】
「トライアスロンはペース」ということを忘れ、突っ走ってしまった。38㎞/hでも全く平気、
面白いように前の選手を捉えては抜いた。100㎞過ぎから疲れを感じはじめてDHポジッションで回せなくなってしまった、120㎞からは腰も痛み出しドロップポジションですら苦しくなる、闘う心が消えかかっていた。
目標タイムを最後の頼りの綱にしてゴール、5時間16分の予想タイムだったがペースを崩した分だけ身体にダメージを残してしまった。
【 RUN 】
ここまでは予定通りのタイムだが順位は326位、170人以上抜いていかないと目標達成できないと思うと、また「心」が消えそうになった。
右脚がほとんど上がらないのは白石コーチのトレーニングでのトラブルでも慣れている、5㎞も我慢すればRUN らしくなるはず、とはいえ左腕を振り上げなければ右脚が前に進まない。
ランナーとしては恥ずかしい限りだが、もはや身体はトライアスリートになっていた。
思った通り5㎞を過ぎて腰の痛み、痺れはなくなった代わりにじわじわと脱水症状があらわれてきたのは、最初小雨だったので帽子を脱ぎ捨ててしまった後に日が照り始めたからだった。
前の選手をどんどん抜いてはいくのだがスピードは上がらず目の前の景色が揺れ始めた。
ここで倒れるわけにはいかない、エイドステーションで頭から水をかぶった、残り4.5㎞からスパートできたのもこの水浴びのおかげだ。
昨年と同じ120人余りを抜いたがタイムは2時間56分、予定より10分の遅れになった。
総合順位 216位、エイジグループ41位、予選通過ならず。
結果としてRUN の不調がハワイへの明暗を分けてしまった、あと10分速ければ…とは後からの反省であるが、RUNの途中では自分ベストの走りだと念じていた。
天候は他の選手も同じ、暑さに弱かったこと、それをカバーする練習ができなことのみ、今となっては悔やまれている。









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