第19話 IRONMAN HAWAWAII(1990年10月6日) 

文字数 4,524文字

★「そしてアイアンマンになる」

SUB3からハワイアイアンマン(アイアンマン世界選手権)に出場するのは高山会長はじめ5名、アイアンマンジャパン予選通過後休養をとることなくハワイに向けての準備をスタートさせた。
メンバー全員が初めてのハワイだった、旅に不慣れな時まずはツアー、そのあたりはしっかりとトライアスロン・ビジネスが動き出していた。
さて、出場権はもらったもののその費用をどうしようか?・・・と悩んでいたら、
問題は思わぬ展開であっさりと解決してしまう。
以前一緒に勤務したことのある、今広告代理店にいる仲間から写真モデルの依頼を受けた。
モデルの条件は夫婦それぞれ仕事をもっている素人カップル・・・ということ、僕らはぴっ
たりだった。仲間が本当に困っていたので妻に頼んで撮影に付き合ってもらった、8月4日土曜日に恵比寿駅横のスタジオで撮影した。
クライアントは天下の東芝、家電新ラインEXCIMAのカタログ・雑誌用の写真だった。
自分自身の仕事では広告撮影現場を熟知していたが、撮られる側は初めて、緊張してNGを連発した。妻は全く動じることもなく自然に微笑んでいた、また頭が上がらなくなった。
後日、撮影の謝礼ということで支払い明細が知らされてびっくり、想像していた金額より一ケタ多く違っていた。
それは、ちょうどハワイ参戦ツアーの金額と同じだった、ただし一人分の金額 またまた妻には頭が上がらなくなった。


ハワイ向けのトレーニングの第一はバイク、ハワイ島のコナウィンドのうわさは畏れを持って聞いていた ・・・厳しい風だと。
SUB3ではその対策として9月23~24日、合宿練習を開いてくれた、宿泊所は青根の峠茶屋の宴会場だった。通常の日曜ライドでは時間が取れないロングライド、初日は都留、松姫、雛鶴の3峠アタック130㎞。
二日目は山伏峠から山中湖往復の80㎞、肝心の風は吹いてなかったが峠のつらさをコナウィンドの代わりとした。
合宿の毎度のお楽しみは酒盛りだが、宴会場だけにカラオケがあった、あとはエンドレスの競演となった。それでも翌朝のランニング、ロングライドを吐き気をこらえながらついていった、無論僕だけではなく多数のメンバーが。




1990年10月2日羽田を出発して、コナに到着。
生まれて初めてのハワイだった、普通ハワイといえばオアフ島のホノルルに行くのが日本人なのだが、その時はなにもおかしいと思っていなかった。
到着したコナ空港がとてもローカルだったことが印象に残っている、良く云って南国風か
な(もっとも2018年現在でもその風情は変わっていないコナ空港だ)。
ぼくらのホテルもローカル色満載だった、夜電灯を消すとゴキブリが現れて眠れないといって逃げてきたのはマッちゃんだった。
アイアンマン本部が入っているホテル・キングカメハメハはそれに比べるとお洒落な大型リゾートホテルだった、来年は少しましなところに泊まると誓った。
バイクトランジッション設営のホテル中庭、大音響で リサ・スタンフィールドが鳴っていた、それを聴いてなぜか世界の戦い、アイアンマンにいる自分を実感した。


3日~5日はスイム、バイク、ランの調整と刺激をした、間違いなくコンディションは良好だった、準備はできた。 TARZANで果たせなかった「遥かなる夢」の実現が目前に迫っていた。


ハワイアイアンマンのスタートはフローティングスタート、選手は海に入って立ち泳ぎを
しながらスタート合図を待つ。 コナ湾は1500人の黄色いスイムキャップとオーシャンブルーに映える太陽の光、神々しいまでの風景となる・・・はずだった。


少し時間を戻す、
スターティングコールの際にボディマークを書かれる、トライアスロンならではの風景。
レースナンバーのほかにエイジグループを示すアルファベットがふくらはぎに書かれるが、
プロ選手はそこにバツ印だ、ちょっと感動したシーンだった。
そのあと時間を見計らって、コナ湾の堤防に向かう、僕はフローティングスタートをしないつもりだった、堤防の端に立って最後に出ることにしていた。
・・・と堤防に来たとき、ゴーグルを持っていないことに気付いた、無論先ほどまであった、どこかに落とした。
来た道を引き返しながらゴーグルを探す、暗い時間帯だからよく見えない、仕方がないので声を張り上げる
「誰か僕のゴーグル見なかった?」 ドジな叫び。
他人が見たら笑える光景だったろうが僕はもうパニック状態になっていた、
叫びは 「誰かゴーグルを貸してください!」 に変わっていた。
その時、僕を招き寄せる人、 
「貰い物のゴーグルだけど、預けた荷物に入れてる、良ければ・・・」
彼の後について荷物預けテントに行った、もう一度荷物を出してもらい中からゴーグルを取り出して渡してくれる、
「顔にフィットしないかも、でもないよりいいかな」
スタートが迫っているというのに、僕がパニックになっているというのに全く動じない彼
の親切な行為に思い切り心打たれた。彼のレースナンバーを覚えた、あとでお礼をしようと思った。(ゴールした時そのレースナンバーがどうしても思い出せなかった、大莫迦者の僕だった)

彼の云った通りそのゴーグルは僕の顔にフィットしなかったが、4㎞スイム中目を塩水にさらし続けるダメージからは守ってくれた。
スイムコースはいたってシンプル、沖合2㎞先の白い大きなクルーザーに向かって泳ぎ、くるりと回って戻ってくるだけだった。それ以上に選手のスイムテクニックとマナーが素晴らしかった、バトルなどという下品な行為は一切なかった、最後列からスタートしたのでよく見えた。
スイムゴールでは屈強なボランティアたちに腕をむんずとつかまれて、上り桟橋に引き上
げられた。
世界一の大会にふさわしい世界一のボランティアだった、これはその他の局面で何度も経験した、伝統と本物を肌で感じたスイム第1パート。


バイクパートの敵は自分自身だと理解していた。
想像していた通りの一人旅だった、溶岩流跡を左手に見てコナハイウェイを北上するが、
ふと前を見ても後ろを振り返っても選手の姿がない。
遠くアップダウンが見通せる一本道には陽炎が立ち上っている。
幻想的な感覚に浸りながらペダルを回す僕を現実に引き戻すのが、かの有名なコナウィンド。じりじりと焼けてくる背中、強烈な風、ちょっと泣きたくなってきた。
望みは帰り道、カメハメハ大王像手前で折り返した後、風は追い風になると・・。
バイクコース後半にコナウィンドの本当の意味を思い知らされた、帰りも逆風だった。
下り坂でもコナウィンドの力で減速してしまう、今度は本当に泣いてしまった、心のなかで。



仲間と出会うこともなくバイクフィニッシュ、ここでもう一度莫迦者ぶりを発揮してしまう。
事前の注意事項 : 
レース日中は路面が灼熱の温度に上がっている箇所があるので素足で歩いたりしないよう
に・・・。
1990年にはトライスーツはまだ普及していなくデイブ・スコットもランニングウエアに着替えて走っていた。僕もバイクから降りてランのトランジッションテントで着替えをする、ここでのミスはバイクシューズを脱いでダッシュしてしまったことだ。
バイクラックからランウェア更衣テントまで走ったが、その道筋には絨毯もマットも畳も敷かれていなかった。
テントに入ったとき足の裏はしっかり火傷していた。
といって、後年出会うような足裏の皮がはがれるほどのトラブルではない、痛みをこらえてランスタート、得意のランパートに移った。


ランコースには、バイクコースとは違って大勢の選手が視野に入ってくる、当然喜んで抜
きにかかる。途中で胸のレースカードが取れてしまう、着替えの時の(あってはいけない)注意不足で3か所のピン止めを引きちぎって一か所で止めていたのが取れた、
ずっと手に持って走るわけにもいかないし通過チェックもしっかりとしてもらいたい、真面目な性格だ、莫迦だけど。

最初のエイドステーションで安全ピンを所望する、当然そんなものは置いていない。 ・・・と、ボランティアが瞬時駆け回って2本の安全ピンを探し出してくれた、すぐにピン付けした。コナのボランティアは素晴らしい、その2だった。
僕がゴールした際、ランニングパンツにレースナンバーが留めてあるのは、実はそのためだった。

調子よく勢いをつけて抜き去ろうとしたとき若い男子選手に声をかけられた
・・「ギブ ミー ファイブ」
《アイアムソーリー アイ ハブ ノット マネー》 
と答えたら思い切り不思議そうに見つめられ、頭を振っていた。そこで 
《 アイ ドント アンダスタンド アメリカンジョーク》 
と言ってみた、僕はジョークのつもりで。
彼は肩をそびやかしてまた頭を軽く振った、これは何となく理解できた・・どうしようもない奴だといっているんだな。
おそらく今になって考えれば、彼は僕にハイタッチまたはロウタッチを求めたのだろうと、と思っている。
「良いペースだね、ガンバ」くらいの意味合いだったのだろう、これは僕の莫迦というより英語力の問題だった。
でもエイドステーションのボランティアは、とても分かり易い英語でほしいものを聞いてくれる  「ゲータレイド?   ウォーター?」
町の中心から遠く離れたエイドステーションは、近所のファミリー全員でボランティアしている様子だった。両親と子どもたちが懸命にサービスしてくれる、子供たちは選手に「サー(Sir)」付で応対する、
「キープゴイング サー」 
・・・・・感激した。
こんな最強のエイドステーションがランコースの先にボーッとほのかに見えてくると本当に心強くなる。
ランコースに夜が訪れる、そりゃハワイにも夜が来る。
ハワイアイアンマンが10月の一番満月に近い土曜日開催なのは、この夜のせいだ。
ランコース沿いにはほとんど街灯がない、月の明かりだけだ、だから途中から蛍光発光のループを首にかけて走る。
実はこの夜のランのあいだ月を見た記憶がない、おそらく満月に近い綺麗な月だったのだろうが、覚えていない。
覚えているのは、遠くに見えるエイドステイションの暖かい光だけだ。



11時間58分21秒でゴール、コナ湾に戻ってきた。

総合658位、エイジグループ49位。
最後にマッサージボランティアに丁寧な手当てを受けた、最強のボランティア、そのトドメだった。


「遥かなる夢アイアンマン」、4年目にようやく夢を手元に手繰り寄せた。



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