第39話 第13回 全日本トライアスロン宮古島大会(1997年4月20日)

文字数 1,446文字

★ 「暗くなるまで待って」

8回連続の宮古島、島の友人たちが当選を応援してくれたに違いない。有り難いことだ。



年末にバイクを新しく変えた、ブリジストンのフルカーボンモノコックタイプ、ホイールは4本リム、カッコイイ。




例年のように寒さのなかでのトレーニングだったが1月初めから2月いっぱい原因不明の
「舌不調」に悩まされた。いつも舌先に不快感がある、痺れて歯に引っかかる、病院でも原因は特定できずいただいた薬も効果がなかった。職場の不満・ストレスによる精神的な症状だったのだろうし、大きなプロジェクトを一人で進めていた疲れもあったのだろう。
1月26日若潮マラソン 3:18:21、 3月16日神奈川マラソン(ハーフ)1:32:15 ・・・・と平凡なタイムだった。

それでも大会までの3か月半でスイム42㎞、バイク1080㎞、ラン640㎞の実績を積み上げていた、特にランの距離拡大は朝練を5㎞から9㎞に増やした結果だった。
SUB3から14名のツアーを引き連れて宮古島に入ったのは14日木曜日、今回も父が同行してくれた。1994年から海老名市に移って来ていた父は各地の僕のレースについてきてくれた …「息子の遺体回収のため・・」といって皆を煙に巻いていた。
確かに父は僕のピーク後のレースしか見ていないので、その言葉もまんざら冗談ではなかったかもしれない。


15日には島の友人宅に招待されて宮古島料理をご馳走になった、彼には長男が生まれていた、 時の過行くのは実に速いものだった。
スイムは大会史上初の出場者全員がクリアー、宮古島の海はプールのように静かでいつもの強烈な潮もなかった。バイクはニューバイクでのロング練習不足で疲れたところに襲ってきたのが,脱水症。バイクパートですでに胃が変調をきたしてバナナが美味しくない、エネルギバーが食べられない、食欲がなくなっていた。
仕上げがよかったランもこんな状態では全く力を出せず、10㎞地点ですでに吐き気を覚えた。エイドステーションごとに座り込む、そんな自分が恥ずかしくもない、ナルシストは影を潜めてしまった。
折り返し直前のエイドステーションでとうとう嘔吐、23㎞地点では沿道の民家の中庭でゴザをお借りして30分横に なるが再度嘔吐してしまう。
27㎞にあったメディカルテントに転がり込む。
宮古島ルールでは点滴を受けた時点でリタイアとなるが、途中いくら休養してもルール違反にはならない。

昨年の「びわ湖」を思い出す、リタイアはしたくなかった、何としてでもゴールまで。
宮古島のボランティアはタフで心配りが細かい、メディカルテントでも・・ 
「まだまだ時間はたっぷりあるよ、少し休んでから行くさ~」
確かにゴール競技場が閉じられるまでには時間があった、暗くなるまで眠ることにした。
といってもぐっすり眠ることなどできない、そのテントには同じ症状で休憩しつつゴールをあきらめていない選手が数人いた、声を掛け合って励ました。
残り15㎞を走る時間プラスαを計算したが不確定要素が多すぎて自信がなかった。
2時間近くメディカルテントにいたと思うが定かではない。
コースに戻ると太陽は沈んで暗くなっていた、涼しくなっていた。
8時28分ゴール、6時間33分のラン、でも戻ってこられた。
父の「遺体回収」の役目はなかった。




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