第45話 癌と出逢う (1998年11月13日)

文字数 2,011文字

★「13日の金曜日」

1998年11月13日の金曜日、渋谷のPL東京健康管理センターで定期成人病検査を受けた。
便潜血反応があるので再検査しましょうということになった。
持病のヘモ(痔)のせいで過去にも同じような再検査を受けたことがあったのでまたそんなことかと思った。トライスロンはシーズンオフ、トレーニングもランニング中心の冬バージョンになっていたが、相変わらず仕事面ではストレスに悩まされていた。
だから、「精密検査を受けておくのもいい機会だ」くらいに楽観していた、
本当は昨年来の体調の不安をそっと隠しながら。


再検査は内視鏡カメラによる腸内の直接検査、無論生まれて初めての経験だった。
12月4日PL東京健康管理センターで推薦された東京共済病院・内視鏡名医 後小路ドクターによる検査が始まった。前日から下剤数種類で腸内を空っぽにする、おかげで検査の時にはくたくたに疲れ切っていた。検査は、肛門から逆行して盲腸までカメラを進め、そこからゆっくりと戻りながら腸内を精査していく。トライアスリートの特徴である内臓脂肪が少ないことと、もともと大
腸が長い特徴のため、カメラを安定して送り込むのが難しいと指摘された。
僕の内視鏡検査はほかのドクターでは難しいとも言い切られた・・・
後小路先生にはそのあと20年間ずっと検査してもらっている。
検査は順調に進んで最後まで戻ってきた。
「何もないようですね…っと、待ってください」とカメラが止まってバックした。
「出口の近くに腫瘍がありますね」
検査される僕も同時にモニター画面で腸内を見ている。
そこには噴火しているような山形の突起が映っていた、噴火していたのは血だった。


即座に、検査中なのにドクターが宣告する。
「ややこしいことになったら大変ですから手術して取ってしまいます」
検査終了後、12月16日入院、17日手術術、入院期間は7日間と決まった。
腫瘍が悪性かどうかはそのあと判定しますといわれたが、正直なところショックだった。
入院・手術までの10日あまりは仕事のカバーをお願いすること集中した、年内復帰はなかった。

そんな中で、SUB3恒例の年末LSD40㎞走が13日に予定されていた。
手術を前にして体力温存・・・ということもないだろうと勝手に考えて参加した、40㎞を青空と紅葉の名残りを目に焼き付けながら走った。もしかしてもう走ることができなくなるかもしれない、これが最後になるかも・・・ とも思って走った。

16日の前日検査で、この40㎞走が問題になった。
検査結果によると心筋梗塞の恐れがあるとのこと、ドクターから尋問された、
「何か強度な運動をしましたか?最近?」
3日前のランニングがしっかりと検査に出るほど僕の身体は弱っていたのか?
いやそうではなかった、40㎞走と心筋梗塞は同じくらいの負荷がかかるということらしい、
ナルシストで無知のトライアスリートはこれだから困る。
17日、10:20下半身麻酔で手術開始、オペレーションの様子は見えないまでも
ドクターの声ははっきりと聞こえてきた。
「・・・C切除・・」という所見が聞こえる、 Cってキャンサーだろうなと思った。
開腹手術ではなかったので回復は早かった。
手術の夜にはベッド横に立って排尿することができた。
20日おかゆの食事が出る、傷の回復も良好なので22日に退院する、予定より2日早かった。
11年前の鎖骨粉砕骨折時の入院1か月に比べれば傷自体たいしたことはない、が「癌」という言葉は重かった。おそらくは癌だろうと思いながら、手術したから大丈夫だと思い込もうとしていた。
いずれにしても切除部分の生体検査結果は1月6日、それまでは不安定なままの年越しになった。
新年1月、2日からランニングを再開する、スピードもスタミナも戻っている。
ジムでのウェイトトレーニングも下半身パートは少しウェイトを軽くしただけで以前と同じパフォーマンスに戻っている。

そして1月6日の検査結果、直腸癌とのこと、リンパ節への転移の恐れもあり。
はっきり言われると心は穏やかではいられなかった。
1月10日、退院以来初めて自力での便通があった。
この後予後の対応として3案が提示された:
① 何もしない
② 転移の恐れがある直腸部をすべて取り去る
③ 放射線治療で患部周辺への転移を防ぐ
案③を選んだ。
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