第33話 フィジー国際トライアスロン (1994年9月14日)

文字数 1,966文字

★ 「 償い 」

「フィジーでトライアスロンやります、賞金取れますよ!」と生和寛さんから声をかけられたのはどんな経緯だったかよく覚えていない。


生さんは日本でのトライアスロンの仕掛人、本業は編集者・プロデューサーだけど、
いつも何か新しいものに飛び込む開拓精神あふれた方だった。
僕がトライアスロンに魅了されたのも彼のハワイアイアンマン・レポートだった(BURUTUS 鉄人狂時代)。2歳年上、常に団塊の世代のトップランナーとして大勢の迷える者たちを引っ張ってくれた、無論ご自身もトライアスリートだった。
彼の広告企画で写真モデルをお引き受けしたこともあった:

ショッピングセンターのお中元企画だったがカンプ設定の美女を抱き上げることがなかなかできなかったこと、
テイクを繰り返すうちに汗みどろになったこと、
モデルの方から、「重くてすいません」と謝られたこと、
今でも冷や汗とともに思い出す。
トライスリーとなら、これくらい・・・と見込まれたのだが、
僕は実は非力なナルシストだった。

閑話休題、
生さんからのお話しにすぐに乗ったのには理由(わけ)があった。
妻と一緒にフィジー旅行がしたかった。
前年1993年のハワイアイアンマンは二人でコナに行くことになっていたが母の不幸で直前にキャンセルした経緯があった。その償いも込めて、今度こそハワイに一緒に行きたいと思っていたが、ハワイへの予選である94ジャパンアイアンマンIN びわ湖の出場は承認さずその計画も頓挫した。

そんな折飛び込んできたのがフィジーのお話しだった。
生さんプロデュースだけあって案内パンフレットからして魅力的だった、
【Heave to Heaven Triathlon】。
フィジーがどこにあるのかもよく知らなかったが、パッケージツアーにお任せすることにした。賞金レースというのはいまでも珍しいが、なんとエイジグループにも賞金が出るという、3以内入賞すれば。
トライアスロン業界に新しい風が吹いてきたような思いがした、迷わず申し込みした。

フィジーはパンフレットコピーのとおり天国のようだった、到着した瞬間から時間がゆっくりと流れ始めた。ツアー特有の拘束された団体行動はなかったので初日からレンタカーで動いてみた。
ダウンタウンはにぎやかだが、少し離れると一世紀前の世界が出現した。
土の床に藁の屋根をふいた住居に迷いこんだりした、観光用の見世物ではなく実生活の場
だった、ショックだった。このような場所で僕らはトライアスロンをしようとしている。
フィジーの人たちが不思議そうに僕らを見つめていた理由が分かり始めた。
お金と暇を持て余したジャパン人が何やら変な遊びをするらしい・・・・とでも思っているようだった。いやもしかして、この思いは日本の世間の皆さんも同じだったのだろうか? 
「あるいはトライアスリートという名のナルシスト」はいったい何をしたいのか?


レースはハーフサイズ、2㎞・90㎞・21㎞、 
限定200名の出場者、40~44歳エイジは15名、狙うはエイジ3位以内だった。
招待プロはグレッグ・ウェルチ、成績証も彼とのタイム差が明記されていた。
スタート直後から200名は大きく分かれる、プロ集団は一気に飛ばし、一般選手は後方での一人旅になった。僕も今どんな順位にいるのかわからないままレースを進める、エイジ入賞を願いながら。

結果総合40位、エイジ4位。3位にはかなり差があった、完敗だった。


ゴールの後、西尾ドクターに再会する、(彼は東京医科大学調査チームのメンバーだった)、
フィジーの医師と協力してレースのメディカルを担当していた。
彼にお願いして生理食塩水の点滴処置を受けた、回復が著しい。
西尾ドクターとは、後年ホノルルトライアスロンで再会することになる。


生さん演出のお洒落なアウォード・パーティ、外のフィージーライフとはかけ離れたリゾート内は別世界のものだった。
レース翌日はマナ島ツアー、楽しい観光トライアスロンだった。


レンタカーで島内一周を計画したが道半ばで道路が陥没して行き止まりだった、天国フィジーの現実を見た。乏しい観光情報をあてに探し当てた、カレーレストラン、中華料理店も観光立国からは程遠い実情だった。そんな僕らは島内随一のリゾートホテルに宿泊し、プライベートビーチで日光浴し、夜は南十字星を愛でる。

フィジーは僕にトライアスリートである意味を今一度考え直させてくれたのだった。
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