第34話 第11回全国トライアスロン宮古島大会  (1995年4月23日)

文字数 1,036文字

★「グ ロッキー」

フィジー国際トライアスロン(1994年9月)から戻ってきたが10月初めからイタリア出張、母の三回忌(高松)が続いた。
次のレースといえば2月の若潮マラソンまで何もなった、集中力をなくしていた。
「フィジー」の後3か月間、バイク練習を全くしていない、「宮古島」の練習を始める翌年1月まで。その1月から恒例となった「宮古島」に向けたトレーニングを始動させる、6回目の「宮古島」だった。

しかし、1月中旬から体調不良、2月にはインフルエンザで、また海外出張、職場の引越で週末の練習ができない。レース直前の練習量は前年を大きく下回っていた、バイクで200㎞、ランでも200㎞の前年比マイナスだった。得意のランの練習不足がストレートにレースに反映された。

「宮古島」には島の方々と選手の交流の場としてストロングマンパレード(前日祭のようなもの)がある。いつもぼくらSUB3は神奈川県代表のような顔をしてパレードしていた
が、どうも芸がない・・・ただ歩くだけでは。ということで、ナルシストの登場となる。
トライアスリートらしい扮装でパレードしようと提案した、例えば ウェットスーツで。
皆に無視されたので仕方なく僕だけウェットスーツになって歩いた。


ウェットスーツは水のなかで快適に泳ぐためのもの、歩き始めてすぐ暑くて汗が流れ落ちてきた。仲間から給水・水掛けをしてもらって、何とか歩き終えたものの脱水症になっていた、レースが始まる前から。


まったくランにならなかったのはトレーニング不足だが、それに加えて熱中症にやられた、
(前日のストロングマンパレードも多少影響していたかも?)
当時は熱中症という名前ではなく、熱射病または脱水症と呼ばれていたが、ゴール後 吐き気、めまいを覚え生理食塩水の点滴治療を受けた。
点滴の効果は速やかだった、あっという間に回復してしまう。
しかしこれが曲者、レース後の点滴は癖になる、体が記憶するらしい。



1995年の「宮古島」には父が付き添いしてくれた。
母亡き後、お互いに心配だから・・といって海老名に引っ越ししてきた父、この後も遠征旅行に同行してくれた。「徳之島」、「佐渡」、「済州島」、「ホノルル(マラソン)」、SUB3メン
バーとも交友を深めていくのだった。




   
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