第20話 第7回全日本トライアスロン宮古島大会(1991年4月21日)

文字数 1,186文字

★「花よりもなほ・・・」

夢がかなった1990年ハワイアイアンマン、帰国後の10月29から右足指が不調、切開したり焼き切ったりいろいろ治療してみたが完治しなかった。
ハワイでのバイク/ラン トランジッションでの火傷の後遺症なのか、そこからの感染症なのか? 結局完治したのは年末、つまり年内いっぱい傷に悩まされた。
この時は体だけではなく心も少なからず傷ついていた。
1990年3月、僕が預かっていたカルテルジャパン㈱が一年後に終了することが決まった。
イタリア本社の経営方針転換がその理由、外資系ジャパン社にはさほど珍しいことではない。これからはコストのかかる現地法人を解消して、エクスクルーシブからオープンマーケットにするという転換だった。

名目はいろいろだが、すぐそこに日本経済の破綻が迫っていたのだった、
バブルが弾ける瞬間が目の前に来ていた。
雇用形態としては親会社であるコンサルタント会社から出向してジャパン社を運営していたので、僕の雇用が無くなるわけではなかった。
しかし、会社を設立から手掛け10年間、拡大してきた業務、気心の知れた仲間、お世話になったお得意様方を想うと、寂しさと未練があった。
ちょうどこの時期(1991年初頭)から、哀しくて面倒な会社清算業務に追われていた。
心が傷ついて、そのストレスが胃痛になって表れていた、トライアスリートといえども心的ストレスには敵わなかった。
そして、
オフィス閉鎖、顧客あいさつ、業務移行など毎日のストレスを解消してくれたのもまたトライアスロンだった。宮古島大会は12月末に2年連続で出場が決定し、1月からその準備が本格化してくる、真冬のトレ-ニングである。 ちょうどこの期間トレーニングに没頭した、3種目をクロスオーバーさせる独自の方法も確立してきていた。


スイムゴーグルの曇り止め薬剤で黒目の皮膚を直径3㎜剥がしてしまう事故もあったがほぼ90%トレーニング計画は消化できた。
宮古島2回目で、いろいろ見えなかったことが理解できるようになってきた。
今回僕は6日間宮古島に滞在したが、その間島全体がまるでトライアスロン合宿のように感じられた。ちょっと贅沢だが今回も東急リゾートに宿泊したのは、そこが島合宿の象徴だったからだ。
招待選手の中山、白戸、勝又選手に再会できる、昨年知り合った仲間とも旧交を温められる。僕はただ体験するだけ、完走するだけで満足するトライアスロンから、大きなコミュニティとしてのトライアスロンを感じ始めていた。


とは言いながら、まだまだ宮古島の真髄には触れてはいなかった。
9時間59分49秒、総合159位、エイジグループ11位。





            
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