第3話 骨折・手術 (1987年4月)   

文字数 863文字

★「トライアスリートに花束を」


チームとしてのデビュー戦は1987年4月の「宮古島全日本トライアスロン」のはずだった、
だが宮古島大会は僕が出場できなかった幻のデビュー戦になった。
4月5日山中湖でのチーム合宿中の落車事故、右鎖骨粉砕骨折、宮古島でのデビュー戦は消えた。それから3か月、復活に向けての苦しい時を過ごすことになる。
事故当日、落車転倒した西湖から救急搬送されて富士吉田市民病院で応急手当てを受けヒーロー工房スタッフの運転で帰宅した。
4月6日 白石トレーナーの紹介で日大病院スポーツ整形斎藤医師の診断を受ける、さすが最速最高の根回しをしてもらった。
同日、斎藤医師の勧めで運よく斎藤医師の後輩医師がいる地元 海老名厚生病院に入院する。
歩くだけで、電車に乗るだけで痛む骨折に付き添ってくれた妻には、この後も頭が上がらないことになる。手術は4月14日、粉砕した鎖骨を寄せ集めチタンプレートをボルト止めするという豪快な手術だった、無論見ていたわけではない、全身麻酔 夢の中だった。
退院は5月7日、1か月の入院生活は人生の中でも一番の試練となった。
仕事仲間に迷惑をかけてしまった、胸の中には大きな後悔を宿らせてしまった、誰にも何も申し開きできなかった。
手術後1週間はベッドの上での絶対安静、自分が鎮痛剤を毎日所望していることに愕然とした、依存症? そのくらい術後の痛み激しかった。
そのうち右腕は完全に固定されてベッドから起き上がることが許された、そして歩行・・・
と回復の道をたどった。
毎日病院食以外に牛乳とチリメンジャヤコを飽きることなく口に放り込んだ。
入院後半では、院内の階段を上り降りし足腰の回復に努力した、
後悔とともに復活の強い情熱が交錯した1か月だった。
復帰戦は7月19日の「アイアンマンジャパン87 インびわ湖」、
それまでに右肩の回復とリハビリ、その右肩を使わないトレーニングに励んだ。


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