1、北へ-3

文字数 2,220文字

 雨は止んでいた。
「こっちだよ」
 友彦は英里が背負ってきた当座の荷物を肩に、サクサクと歩道を進んでいく。
「一応バスもあるんだけどね」
 友彦はついて歩く英里を振り返り振り返り、笑顔で言った。
「田舎だからさ、本数少なくて。待ってる間に着いちゃうんだよ」
「はあ」
 英里は友彦の言った「田舎」という言葉にどう返すべきか迷って、曖昧に相槌を打った。政令指定都市の、地下鉄と乗り換えもできる駅を田舎と言ってよいものか。
「だから、ごめんな。朝早くて疲れてるのにな」
 友彦は済まなそうにそう言った。英里は慌てて首を振った。
「ううん、平気」
 確かに朝早いのはニガテだった。夜いつまでも遊び続けて、午前は寝床でまた遊びの続きをしたり、少なくとも早く起きて朝から登校する生活ではなかった。そんな淀んだ日々の疲れが顔に出ていたのだろうか。友彦の爽やかな笑顔に英里の胸がチクリと痛む。
 友彦に連れられ駅から十五分ほど歩いたところに、永井家はあった。
「ただいまー」
 友彦が靴を脱ぎながらそう奥へ声をかけると、賑やかな明るい声が返ってきた。
「トモ、あんた、駅から一度電話入れてってあれほど言ったのに。(ひで)くんとはちゃんと会えたの?」 
「おー、ちゃんと連れてきたよ」
「車の音しなかったけど。あんたまさか、英くんをここまで歩かせたんじゃないでしょうね。タクシー拾えって言ったでしょ?」
 叔母の暢恵が玄関へ出てきた。
「タクシーって……大した距離じゃないんだし、かえって拾われたタクシーも迷惑だろうさ」
「そんなことないよ。英くん東京からなんだから、疲れてるでしょ」
 面倒くさそうな友彦を押しのけ、暢恵は英里の肩をつかんだ。
「いらっしゃい、よく来たねえ、英里くん。大きくなったけど、相変わらず細いねえ。ちょっと顔色悪いんじゃない? よく眠れてるの? 引越準備で疲れたんじゃない?」
 マシンガントークだ。英里は勢いに負けないよう踵に力を入れた。
「ご無沙汰してます、叔母さん」
 靴を脱ぐ前に、英里は礼儀正しく頭を下げた。
「このたびは、お世話になります。よろしくお願いいたします」
 暢恵は破顔した。
「やだ英くんたら、お行儀よすぎ。他人行儀は止めて。家族がひとり増えて喜んでるんだから」
「気をつけろよ。このひとは、労働人口が増えたとしか考えてないからな」
 暢恵の横で友彦が顔をしかめて忠告した。
「何よお、英くんが誤解するじゃない。そりゃ落ち着いたら、家事当番には入ってもらうけどさ。『働かざるもの食うべからず』、これはウチの教育方針だから。ささ、英くん、上がって上がって」
 暢恵は年齢相応のややふくよかな身体を揺すって居間のドアを大きく開けた。
「これ、使って」
 友彦が上がりかまちにスリッパを並べた。
「うん、ありがと」
 英里は小声で礼を言った。
「いらっしゃい」
 居間に入ると、叔父の永井氏、永井睦男が台所から顔を出した。英里はまた丁寧に挨拶し、睦男も暢恵と同じように歓迎の意を述べた。
 永井家は夫婦ともに教員と聞いていた。暢恵は中学校、睦男は小学校に勤めている。ふたりとも、仕事柄他家の子供に慣れているのだろう。自然に迎え入れられて英里は安堵した。
「まあまあ、座って。長旅疲れたろう」
 睦男がテーブルに茶を並べる。友彦が「座れよ」と言ってくれたので、英里は友彦と並んで長椅子に腰かけた。身体の深いところが、どこかそわそわして落ち着かない。
 永井家の居間はどこか乱雑な感じがした。東京の英里の実家、蓮見家がしんと静まりかえって冷たいのと好対照だ。英里はどこが違うのだろうと、さりげなく観察した。
 ところどころに写真や土産ものの工芸品などが置いてある。置いてあるものの角や縁はそれぞれ少しずれている。
 英里の母、綾子は神経質で、角はピッチリ正確に合わせないと許せない女だった。同じ姉妹でも、暢恵の気性は朗らかで、細かいことを気にしない性質(タチ)なのだろう。英里は母に連れられて永井家を訪れたときのことを、少しずつ思い出してきた。叔父も叔母も優しく滞在は楽しくて、毎回帰る日は幼心に残念に思ったような気がする。
 この歳の近い従兄も、歳の近い英里とよく遊んでくれ、た?
「転校の準備はすっかり済んでるから。教科書も揃えておいたし。学校は明日から行けるからね」
 叔母が言った。この短期間で書類提出など全て完了したのは、永井家の協力があってこそだ。通常なら一応編入前に学力審査があるそうだが、英里が在籍していた東京の進学校の名前を出せばパスとなった。もちろんこれも、叔母の暢恵の口添えが大きく貢献したことだろう。
 明日は月曜日。
「英里くん、今日のうちに一度下見に行っておくかい?」
 睦男が気づかってくれた。
「別にいいんじゃない? 今日行ったって手続きできるワケじゃないし。エリちゃんは明日俺が連れて行くから大丈夫」
 友彦は力強くそう言った。英里は湯呑みを手にしたまま隣の友彦に小さく訊いた。
「同じ学校、なの?」
「ああ。近くていいぜ。歩いて十分ちょっとだから」
「そうなんだ」
 英里は他人事のようにそう言った。慌ただしく過ごしたここ数日、転校先を確認している余裕はなかった。
「何だよ、『こっちの学校がいい』って移ってきたんだろ? 余裕だね」
 そうだった。英里がせっかく受かった東京の進学校を蹴って、遙か北海道の永井家に移ってきた理由は、「進学のため」ということにしておくのだった。
 英里はぼんやりと笑ってみせた。
 
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