3、当番-3

文字数 2,641文字

 水曜の夜は洗濯機を借り、洗濯をしてみた。
 必要最小限のものしか持ってきていないので、着替えが足りなくなりそうだった。
 翌日の朝、英里はシャツの乾き具合を確かめた。何とか着て行けそうだ。それにラフなテーラージャケットを合わせる。私服で通学するのは初めてで、加減がよく分からない。友彦は大体適当なシャツにトレーナーを合わせ、コート代わりのジャケットを羽織って学校へ行く。英里を迎えに出てきてくれた、あの日も同じ格好だった。
「そろそろ道覚えたか?」
「ううん、まだちょっと自信ない」
 英里は小さな嘘をついた。
「そっか。じゃ、今日も帰り迎えに行くな」
 今日は木曜。月曜に始まった英里の登校も四日目だ。
「ごめんね、友兄。僕、方向音痴ひどくって」
「ばっか。気にすんなよ。どーせ帰るんだからおんなじさ」
 英里は内心従兄に対して済まなく思っていた。方向音痴なんて嘘だ。でも、そう言っておけばこの優しい従兄をつかまえておける。学校までの行き帰り、肩を並べて歩くことができる。友彦がトレーナーの上に引っかけている、いつものオレンジのジャケットを見つめて歩ける。
 一緒に帰れば、いつものように夕食どきまでゲームをして、そしてその後も何となく一緒に行動できる。英里にとっては、夢のような時間だ。これを手放すなんてできない。
「じゃな」
「うん」
 友彦は英里に手を振り、三年の教室へ向かい階段を登った。
 友彦と別れ自分の教室へ向かおうとすると、木下に出会った。
「おはよう、蓮見」
「おはよ」
 木下は英里の背後に視線を向けた。
「永井さんと、一緒に来てんの?」
 英里は無表情を装った。
「ああ、まだ道分からなくて」
「ふーん」
 覚えるも何も。こんな碁盤の目で構成された街で、迷うも何もない。どこからどう行ったって見覚えのある通りに出る。さらに住居表示はベクトルだ。交差点で信号を見上げ、そこの住所表記を見れば済むことだ。だが。
「僕、方向音痴なんだ」
 英里は言い訳しながら教室の戸をくぐった。
 木下は英里の後ろめたさなど知らず、明るく言った。
「いいんじゃない? どうせ同じガッコに来るんだし」
 友彦と同じことを言う。英里はくすぐったい気持ちを押し殺し、「うん」と答えた。
 授業は順調だった。正直、英里はここ数ヶ月、とくに夏休み明けは学校へあまり行っていなかった。だから、進度は遅れていると覚悟していたが。
 そこは、腐っても東京の進学校だったようだ。
 与えられた教科書を、休み時間と永井家へ戻って夕食後の短い時間、パラパラめくればリカバリできそうだった。
 問題なのは、友彦だ。
 友彦は理系クラスで、国立理系を狙えるそこそこの成績だったが、問題があった。英語が全然できないのだ。
 英語や数学のような、積み上げ系の教科は、一段一段組み上げていかないとあとで挽回が難しい。
「理解できてないとこ潰さなきゃなあ、メンドイなあ……と思ってるうちに、今まで来ちゃったんだよ」
 昨夜、夕食後の食卓で、直近の模試の成績を見せられた英里は、ひと事ながら頭を抱えた。
「分かる。興味が持てない科目だと、面倒くささもハンパないもんね」
「そうそう、そうなんだよ」
 一応うなずいてやった英里に、友彦は身を乗り出して同意した。突きだされた友彦の頭を、英里は指の関節で優しくコツンと叩いた。
「『そうなんだよ』じゃないでしょ。ほかの教科はどれもできてるのに。もったいないなあ」
 叩かれて、友彦は身を乗り出したままキューンと鳴く子犬のような顔になった。
 それを見て、英里の胸もキュンと鳴る。
 そこへ風呂上がりの暢恵が通りがかった。
「英くんの言う通りだよ。英くん、このポンコツにもっと言ってやって」
「叔母さん……」
 英里は苦笑するしかない。暢恵は立ち止まった。
「もうこんな歳になるとさ、オヤの言うことなんて聞きやしないの。それは正常なことなの。だからそれはいいんだけど、もうあと三ヶ月でしょ? 間に合うのかね」
 教員だけあって、叔母は息子の学力をシビアに把握している。この辺、受験戦争の現場が分からないながら、世間体だけを考えて息子を名の通った学校へ入れさせたがった英里の母と、どちらがマシかと英里は思う。
 少なくとも暢恵が母だったなら、「通学がタイヘンだから」という理由でうまく騙され、部屋を借りてはくれなかったろう。
「間に合います。合わせますよ」
 友彦は顔だけ母の方を向けてそう請け合った。
「そうあって欲しいものだけどね。英くんだって自分の勉強があるんだから、そうそう付き合わせて迷惑かけるんじゃないよ」
 暢恵は何度かうなずいて台所を出て行った。
「うるさいなあ、もう」
「え?」
 友彦のぼやきに英里が目を丸くすると、今度は友彦が怪訝そうな目を向ける。
「は?」
「叔母さん、別にうるさくないじゃない」
「そうか?」
 英里は大きくうなずいた。
「うん。かなり……、ていうか、相当、理性的なひとだと思うけど。あのひとと姉妹だなんて、信じられない」
「『あのひと』って、綾子伯母さんのこと?」
 しまった。
 英里は返事に詰まってしまった。
 きっと暗い顔をしてしまったのだと英里は思う。なぜなら、友彦が笑顔でさっと受け流してくれたから。
「よっし。じゃあ、やりますか、不得意教科の克服ってやつを」
 友彦はふたりで用意していた温かいお茶をこくりと飲んだ。
 そうして昨夜は、ふたりでああだこうだ言いながら、両親が寝室へ引っ込んでしまうまで、食卓でノートを広げていたのだった。
 この高校へ来て四日目。ようやく休み時間のたびに廊下からキャーキャー言われなくなった。美形の転校生をひと目見ようと、女子が鈴なりになっていたのだ。転校生が珍しがられるのはしかたないが、女子たちの盛り上がる原因は英里の外見だ。
 英里ははにかんだ振りをして下を向く。廊下でギャラリーがワッと賑わう。英里が心の中で舌を出していることなど、誰にも気づかれない。
 何かと注目を集めやすい転校生の立場だが、英里は周囲から「もの静かなコ」として認識されたようだ。英里の顔をひと目見ようと集まった他クラスの女子生徒は、四日目ともなるとまばらになった。
 このまま、とくに注目されたりせず、トラブルを起こさず、そっと卒業まで逃げ切りたい。
 将来に希望なんて持っちゃいなかったが、何となくどこかの大学に入って、こっそり世間の隅で、息を潜めて生きていければ。
 もう誰にも見つかったりせずに、ずっとひとりで。
 そう、思って、いたはずなのに。 
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