4、金属樹-5
文字数 1,668文字
「お風呂掃除……やりますっ」
夕食の食卓で、英里はそう言ってみた。
暢恵と睦男はしばらく顔を見合わせていたが、数秒後こっくりとうなずき合って、揃って英里に笑顔を向けた。
「了解! じゃあ、お風呂掃除当番、英くんも入ってもらうね。ああ、英くん、今までやったことある?」
「失礼だろう、暢ちゃん。英里君だってもう高校生なんだし。それにウチに来る前、ひとり暮らししてたんだよなあ?」
ふたりにそう畳みこまれて、英里は口ごもった。
「ええ……まあ……」
ひとり暮らしはしていたが、家事らしい家事は、やったことがない。多分掃除は、英里が出かけている間に、綾子が勝手に入ってやっていたのだ。うすうす気づいてはいたが、あの母親には何を言っても無駄だと知っていた英里は、彼女の好きにさせていた。その英里の投げやりさが、あの悲劇を招いてしまった。
いや、あれは悲劇じゃない。喜劇だ。下らない、笑えない、最低のドタバタ喜劇だ。
友彦が英里の肩を抱いた。
「大丈夫! 始めは俺が教えるから」
友彦は両親にキッパリそう宣言した。英里は慌てた。
「ダメだよ、受験生にそんな負担かけられないよ。僕、ちゃんとできるから」
「あーいいのいいの。受験生にだって、多少の息抜きは必要でしょ」
二人が、下宿させる甥を、実の息子と分け隔てなく接しようとしてくれていることは分かっていた。東京での失敗で、流刑に遭った気分でいた英里には、それがとてもありがたかった。どんな扱いをされても文句を言えない立場だからこそ。
暢恵は友彦にチラと厳しい視線を送る。
「あんた、また英くんをダシにサボろうとしてんの?」
「『ダシ』って何だよ。風呂掃除なんてたかだか二〇分かそこらだろ。英里は優秀だから、一回で覚えるし。楽勝だよ」
「そんならいいけど」
まだ来てから日が浅く、食事当番は免除されている。週に二回だけ、食器洗いを任されるようになったが、食卓で勉強したがる友彦が毎回英里を手伝ってしまう。英里はそれが申し訳なかった。ひとりでこなせる役割を与えられたかった。
「……ごめん、友兄。いっつも手伝わせて」
済まない気持ちで英里はそう謝った。
「ばぁか。んなの、俺がやりたくてやってんの。気にすんなよ」
友彦は快活に笑った。
「もう、受験生受験生って、二十四時間ずっと受験生でなんていられねえよ。ちっとは解放される時間が欲しいんだ。英里もさ、二年後に『ああ、あんとき、友彦兄さんが言ってたのって、コレかあ』って思い出すさ」
「『ちっとは』か……結構、自由にやってるように見えてるけどな」
珍しく睦男のツッコミだ。友彦は「うぐ」と唸った。
英里は「大丈夫?」と水の入ったコップを手渡した。友彦は英里の手からコップを受け取り、こくんと飲んだ。
「父さん、それはないんじゃないの? 俺、ちゃんと勉強してるよ。毎晩見てるでしょ」
睦男は生真面目な表情を崩さず、言った。
「僕が学校から戻ると、大体居間でゲームしてるけどねえ君は」
暢恵が「ほらあ」と大口を開けた。
勤務先の学校がどこにあるのか、小学校教諭の睦男は、中学校の暢恵よりも早く帰ってくることが多い。高校から一緒に帰ってきた英里と友彦が、居間でしばらく遊んでいて、「そろそろ机に向かおうか……」というタイミングで睦男が入ってくる。
申し訳ない。英里は小さくなった。
自分が、受験生である友彦を、堕落させているとしたら。
こんな高校三年の男子のいる家に、自分なんかが闖入してくるべきじゃ。
「ああ英里君、違うんだよ。君が来たからって遊んでるんじゃない。このバカものは」
睦男はそこで少し言葉を切った。父親に反抗的な目を向ける息子をじっと見て、そうしてまた英里に言った。
「友彦は、君が来たからハメを外したんじゃない。帰宅しても、なかなか教科書を開かないのは元から」
睦男の隣で、暢恵が大きくうなずいた。
「そうそう。むしろキミが来てくれて、友彦の学習時間は格段に増えてるんだから。苦手な英語も教えてくれてるんでしょ? 親としては、ホンットありがたい。姉さんにお礼言いたいくらい」
夕食の食卓で、英里はそう言ってみた。
暢恵と睦男はしばらく顔を見合わせていたが、数秒後こっくりとうなずき合って、揃って英里に笑顔を向けた。
「了解! じゃあ、お風呂掃除当番、英くんも入ってもらうね。ああ、英くん、今までやったことある?」
「失礼だろう、暢ちゃん。英里君だってもう高校生なんだし。それにウチに来る前、ひとり暮らししてたんだよなあ?」
ふたりにそう畳みこまれて、英里は口ごもった。
「ええ……まあ……」
ひとり暮らしはしていたが、家事らしい家事は、やったことがない。多分掃除は、英里が出かけている間に、綾子が勝手に入ってやっていたのだ。うすうす気づいてはいたが、あの母親には何を言っても無駄だと知っていた英里は、彼女の好きにさせていた。その英里の投げやりさが、あの悲劇を招いてしまった。
いや、あれは悲劇じゃない。喜劇だ。下らない、笑えない、最低のドタバタ喜劇だ。
友彦が英里の肩を抱いた。
「大丈夫! 始めは俺が教えるから」
友彦は両親にキッパリそう宣言した。英里は慌てた。
「ダメだよ、受験生にそんな負担かけられないよ。僕、ちゃんとできるから」
「あーいいのいいの。受験生にだって、多少の息抜きは必要でしょ」
二人が、下宿させる甥を、実の息子と分け隔てなく接しようとしてくれていることは分かっていた。東京での失敗で、流刑に遭った気分でいた英里には、それがとてもありがたかった。どんな扱いをされても文句を言えない立場だからこそ。
暢恵は友彦にチラと厳しい視線を送る。
「あんた、また英くんをダシにサボろうとしてんの?」
「『ダシ』って何だよ。風呂掃除なんてたかだか二〇分かそこらだろ。英里は優秀だから、一回で覚えるし。楽勝だよ」
「そんならいいけど」
まだ来てから日が浅く、食事当番は免除されている。週に二回だけ、食器洗いを任されるようになったが、食卓で勉強したがる友彦が毎回英里を手伝ってしまう。英里はそれが申し訳なかった。ひとりでこなせる役割を与えられたかった。
「……ごめん、友兄。いっつも手伝わせて」
済まない気持ちで英里はそう謝った。
「ばぁか。んなの、俺がやりたくてやってんの。気にすんなよ」
友彦は快活に笑った。
「もう、受験生受験生って、二十四時間ずっと受験生でなんていられねえよ。ちっとは解放される時間が欲しいんだ。英里もさ、二年後に『ああ、あんとき、友彦兄さんが言ってたのって、コレかあ』って思い出すさ」
「『ちっとは』か……結構、自由にやってるように見えてるけどな」
珍しく睦男のツッコミだ。友彦は「うぐ」と唸った。
英里は「大丈夫?」と水の入ったコップを手渡した。友彦は英里の手からコップを受け取り、こくんと飲んだ。
「父さん、それはないんじゃないの? 俺、ちゃんと勉強してるよ。毎晩見てるでしょ」
睦男は生真面目な表情を崩さず、言った。
「僕が学校から戻ると、大体居間でゲームしてるけどねえ君は」
暢恵が「ほらあ」と大口を開けた。
勤務先の学校がどこにあるのか、小学校教諭の睦男は、中学校の暢恵よりも早く帰ってくることが多い。高校から一緒に帰ってきた英里と友彦が、居間でしばらく遊んでいて、「そろそろ机に向かおうか……」というタイミングで睦男が入ってくる。
申し訳ない。英里は小さくなった。
自分が、受験生である友彦を、堕落させているとしたら。
こんな高校三年の男子のいる家に、自分なんかが闖入してくるべきじゃ。
「ああ英里君、違うんだよ。君が来たからって遊んでるんじゃない。このバカものは」
睦男はそこで少し言葉を切った。父親に反抗的な目を向ける息子をじっと見て、そうしてまた英里に言った。
「友彦は、君が来たからハメを外したんじゃない。帰宅しても、なかなか教科書を開かないのは元から」
睦男の隣で、暢恵が大きくうなずいた。
「そうそう。むしろキミが来てくれて、友彦の学習時間は格段に増えてるんだから。苦手な英語も教えてくれてるんでしょ? 親としては、ホンットありがたい。姉さんにお礼言いたいくらい」