4、金属樹-1
文字数 2,244文字
学校の行き帰り。帰宅後のTVの前。夕食が済んで片付けて、ノートを広げて課題をやって。
心弾むそんな時間を。
ともに過ごす従兄の温かさを。
英里は日々噛みしめていた。
永井家で過ごす穏やかな日々は、意外にも楽しい。
「おや、またここで広げてるのかい?」
食器を片付けに入ってきた睦男がふたりをからかった。
「ああ、自分の部屋でやるとさ、どうしても気が散って、進まないんだよ」
「普通逆じゃないか?」
「いいでしょ、どっちでも」
友彦は夕食後、食卓で勉強道具を広げたがる。それを見ると、英里もつい向かいに座って、自分の道具を広げてしまう。
英里が友彦に英語の時制を教えたり。友彦が英里に関数の公式を説明したり。ギブアンドテイクの関係だ。これはこれで効率がいい。
相手のノートを指差すとき、深く身を乗り出してのぞき込むとき、手が触れたり足がぶつかったりする。
そんな小さな幸せを、大事にしている自分がいる。
英里は我ながら驚いていた。
こんな小さな接触を、心待ちにしている自分の純情に。
そんな純粋さ、とうに失ったと思っていた。
やさぐれきった荒んだ生活。追い出された東京の部屋。
あの頃とは別人のようだ。
手に入らない誰かを、すぐそばで想って暮らす。そんな不自由を、嬉々として受け入れているなんて。
欲しいと思ったらすぐにその場で手に入れる。そんな刹那的な日々を送っていたのに。
「上がったよー、次は誰?」
暢恵が風呂から出てきた。
「お湯が冷めちゃうから、次早く誰か入って」
流しに向かっていた睦男が、首だけ振り返って暢恵に答えた。
「僕は今、包丁研いでるから後でいい」
睦男はテーブルに向かう子供たちに視線を向けた。
「君たち、先に入ってきなさい」
「おー、じゃ、どっちが先に入るか、ジャンケンな」
友彦はいたずらっぽく笑って袖を捲った。英里は首を振った。
「いいよ、僕は後で。友彦兄さん、先に入りなよ」
「いいから」
ジャーンケーン、ポン。
「ほらぁ、友兄、入ってきなよ」
「へーい」
友彦は勉強道具を広げっ放しで席を立った。
替えの下着を取りにバタバタと階段を往復して風呂場へ消える。
「ずいぶんと、仲良くなったね」
睦男が言った。
「……すみません」
英里は動揺して、思わず謝ってしまった。
睦男は笑った。
「『すみません』って。何も『すまない』ことないじゃないか」
「いえ、あの」
後ろめたい気持ちになっていたところを刺激され、反応が過剰になった。謝るような何があるか、勘ぐられてはいけない。リカバーしなくては。英里は焦った。
「ご飯終わっても、遅くまでこんなとこでうるさくしてて」
睦男はゾオリゾオリと往復していた刃先をじっくり確認する。
「こんなのうるさいうちに入らないよ。学校なんて、獣の集まりだからね。鳴いたり吠えたり、賑やかなもんだよ」
「あはは」
確かに睦男の勤務先は小学校だから、こどもの大声には慣れているだろう。
睦男は研いでいた包丁を水ですすぎ、最後にふきんでしっかり水気を拭った。
「あのコがこんなに勉強してるのは、初めて見るよ」
「え……?」
英里は睦男の顔を見上げた。睦男は穏やかに言った。
「友彦はね、何というか……勉強が嫌いなコじゃないんだが、持久力がないんだな。根気と言ってもいい」
「はあ……」
「ひとつのことに、長続きしないんだ。受験勉強なんて、時間をかけてコツコツと仕上げていくものだろう? そういうのはとくに苦手でね」
そうかもしれない。一緒に勉強したここ数日、友彦は取りかかるときはそこそこ熱意があるのに、しばらくすると飽きてくる。集中力が続かないタイプだ。
「ところが英里くん、君が来て、ちゃんと机に向かっている」
「自分の部屋の勉強机じゃないですけどね」
「場所はどこだっていいんだ」
睦男は流しの下の扉を開け、研いだ包丁をしまった。
「君が来てくれてよかった」
「え」
英里はその場に固まった。
「もしかしてあいつ、今年の受験に間に合うかもしれない」
早口にそう言って、睦男はニヤリと口の端を上げた。
風呂場からドスドスと足音が近付いてきた。
「上がったぞー。英里、次」
下着姿にバスタオルで頭をゴシゴシこすりながら、友彦が出てきた。英里は目のやり場に困り、慌てて叔父を見上げた。
「叔父さん、包丁研ぎ終わったでしょ。お先にどうぞ」
睦男はのんびり答えた。
「いや、いいよ。君入りなさい。僕は後で入って、ついでにざっと掃除するから」
「えぇ……」
そういうものなのか。英里が春まで住んでいた蓮見の家では、掃除をどうするなんて話に出たことがなかった。どうしていたのだろう。母は家事代行を使っていたから、家事に困ることはなかったのだろうか。
こういうときは遠慮すべきなのか、そうでないのか。判断できなかったので、英里は言われた通りにすることにした。
「じゃ、お先にいただきます」
英里は立ち上がり、開いていたノートを閉じた。
「はい、どうぞ」
勉強道具をまとめる英里に、友彦が言った。
「英里ぃ、もうやんないの?」
拗ねたような声が可愛い。
「今日のところは部屋に戻るよ」
「何だあ」
残念そうな友彦を英里は放置できなかった。参考書を重ねる指を止め、言った。
「……分かんないとこがあったら、聞きに来ていいから」
大学受験の友彦に、高校一年の英里が、これ以上ないほど生意気なことを言ってみる。
友彦は「やりぃ」と笑顔になった。
英里は友彦の横を素早くすり抜けた。
自分がどんな顔をしているか、見られてしまう前に二階へ。
心弾むそんな時間を。
ともに過ごす従兄の温かさを。
英里は日々噛みしめていた。
永井家で過ごす穏やかな日々は、意外にも楽しい。
「おや、またここで広げてるのかい?」
食器を片付けに入ってきた睦男がふたりをからかった。
「ああ、自分の部屋でやるとさ、どうしても気が散って、進まないんだよ」
「普通逆じゃないか?」
「いいでしょ、どっちでも」
友彦は夕食後、食卓で勉強道具を広げたがる。それを見ると、英里もつい向かいに座って、自分の道具を広げてしまう。
英里が友彦に英語の時制を教えたり。友彦が英里に関数の公式を説明したり。ギブアンドテイクの関係だ。これはこれで効率がいい。
相手のノートを指差すとき、深く身を乗り出してのぞき込むとき、手が触れたり足がぶつかったりする。
そんな小さな幸せを、大事にしている自分がいる。
英里は我ながら驚いていた。
こんな小さな接触を、心待ちにしている自分の純情に。
そんな純粋さ、とうに失ったと思っていた。
やさぐれきった荒んだ生活。追い出された東京の部屋。
あの頃とは別人のようだ。
手に入らない誰かを、すぐそばで想って暮らす。そんな不自由を、嬉々として受け入れているなんて。
欲しいと思ったらすぐにその場で手に入れる。そんな刹那的な日々を送っていたのに。
「上がったよー、次は誰?」
暢恵が風呂から出てきた。
「お湯が冷めちゃうから、次早く誰か入って」
流しに向かっていた睦男が、首だけ振り返って暢恵に答えた。
「僕は今、包丁研いでるから後でいい」
睦男はテーブルに向かう子供たちに視線を向けた。
「君たち、先に入ってきなさい」
「おー、じゃ、どっちが先に入るか、ジャンケンな」
友彦はいたずらっぽく笑って袖を捲った。英里は首を振った。
「いいよ、僕は後で。友彦兄さん、先に入りなよ」
「いいから」
ジャーンケーン、ポン。
「ほらぁ、友兄、入ってきなよ」
「へーい」
友彦は勉強道具を広げっ放しで席を立った。
替えの下着を取りにバタバタと階段を往復して風呂場へ消える。
「ずいぶんと、仲良くなったね」
睦男が言った。
「……すみません」
英里は動揺して、思わず謝ってしまった。
睦男は笑った。
「『すみません』って。何も『すまない』ことないじゃないか」
「いえ、あの」
後ろめたい気持ちになっていたところを刺激され、反応が過剰になった。謝るような何があるか、勘ぐられてはいけない。リカバーしなくては。英里は焦った。
「ご飯終わっても、遅くまでこんなとこでうるさくしてて」
睦男はゾオリゾオリと往復していた刃先をじっくり確認する。
「こんなのうるさいうちに入らないよ。学校なんて、獣の集まりだからね。鳴いたり吠えたり、賑やかなもんだよ」
「あはは」
確かに睦男の勤務先は小学校だから、こどもの大声には慣れているだろう。
睦男は研いでいた包丁を水ですすぎ、最後にふきんでしっかり水気を拭った。
「あのコがこんなに勉強してるのは、初めて見るよ」
「え……?」
英里は睦男の顔を見上げた。睦男は穏やかに言った。
「友彦はね、何というか……勉強が嫌いなコじゃないんだが、持久力がないんだな。根気と言ってもいい」
「はあ……」
「ひとつのことに、長続きしないんだ。受験勉強なんて、時間をかけてコツコツと仕上げていくものだろう? そういうのはとくに苦手でね」
そうかもしれない。一緒に勉強したここ数日、友彦は取りかかるときはそこそこ熱意があるのに、しばらくすると飽きてくる。集中力が続かないタイプだ。
「ところが英里くん、君が来て、ちゃんと机に向かっている」
「自分の部屋の勉強机じゃないですけどね」
「場所はどこだっていいんだ」
睦男は流しの下の扉を開け、研いだ包丁をしまった。
「君が来てくれてよかった」
「え」
英里はその場に固まった。
「もしかしてあいつ、今年の受験に間に合うかもしれない」
早口にそう言って、睦男はニヤリと口の端を上げた。
風呂場からドスドスと足音が近付いてきた。
「上がったぞー。英里、次」
下着姿にバスタオルで頭をゴシゴシこすりながら、友彦が出てきた。英里は目のやり場に困り、慌てて叔父を見上げた。
「叔父さん、包丁研ぎ終わったでしょ。お先にどうぞ」
睦男はのんびり答えた。
「いや、いいよ。君入りなさい。僕は後で入って、ついでにざっと掃除するから」
「えぇ……」
そういうものなのか。英里が春まで住んでいた蓮見の家では、掃除をどうするなんて話に出たことがなかった。どうしていたのだろう。母は家事代行を使っていたから、家事に困ることはなかったのだろうか。
こういうときは遠慮すべきなのか、そうでないのか。判断できなかったので、英里は言われた通りにすることにした。
「じゃ、お先にいただきます」
英里は立ち上がり、開いていたノートを閉じた。
「はい、どうぞ」
勉強道具をまとめる英里に、友彦が言った。
「英里ぃ、もうやんないの?」
拗ねたような声が可愛い。
「今日のところは部屋に戻るよ」
「何だあ」
残念そうな友彦を英里は放置できなかった。参考書を重ねる指を止め、言った。
「……分かんないとこがあったら、聞きに来ていいから」
大学受験の友彦に、高校一年の英里が、これ以上ないほど生意気なことを言ってみる。
友彦は「やりぃ」と笑顔になった。
英里は友彦の横を素早くすり抜けた。
自分がどんな顔をしているか、見られてしまう前に二階へ。