8、ラベンダーの夕暮れ-1

文字数 1,112文字

「おはようございます……」
 英里が起き抜けの鈍い頭で下りていくと、ちょうど暢恵が出ていくところだった。
「あら英くん、おはよう。今日は逆ねえ」
「え?」
「ウチのバカ息子よぉ。トモがまだ起きてこないの」
「え……」
 珍しい。
 下りてきた階段を振り返る英里に、暢恵はひらひらと手を振った。
「ああ、いいのいいの。好きにさせておいて。自分の行動の責任は自分で取れる年齢よ」
 英里と違って友彦は朝弱くなかった。体調がよくないのではないかと心配になる。昨日の風呂場でのふざけ合いで、風邪を引かせてしまったろうか。友彦は受験生なのに。
「でも、どこか具合悪いのかも」
 暢恵は構わず靴を履く。
「それでも、親や学校にひと言連絡できないほどの体調なんてないよ。ね、バカ息子?」
 最後の方は階上へ向け声を張って暢恵は言った。さすが毎日中学生相手に鍛えられている。よく通る声だ。
 暢恵は出勤していった。英里は友彦の部屋の扉を叩いた。
「友彦兄さん、大丈夫? 具合、悪いの?」
 中でゴソゴソと音がして、「んん、大丈夫だから」とくぐもった声がした。
「ホント?」
「ああ、ホントホント。だから先にメシ食っててくれ」
 英里は扉を開け、友彦が元気なのを確かめたかった。が、それは自分には許されていないことだ。
 英里は目を伏せ、ノックした拳をキュッと握り、それから言った。
「じゃあ、先にご飯食べてるね。早くしないと、学校遅れるよ」
 慣れてきた台所で、英里はひとりでルーティンの朝食を準備した。トースターに食パンを突っこみ、ガスレンジで湯を沸かす。珍しく朝寝坊の友彦にはコーヒーがいいだろう。そう判断して彼の分も、ふたり分。
 永井家のコーヒーはドリップ式で、毎回丁寧に手で落とす。睦男がコーヒーメーカーを捨ててしまったのだと暢恵が笑っていた。
(コーヒーメーカーで落としたコーヒーは、おいしくないって)
 確かにそうかもしれない。先日研いでいた包丁といい、こだわりを大事にするひとなのだろうと英里は思う。小学校教員の激務の中で、大したものだ。
 家庭の中で、仕事を持つ大人が役割を果たし、何かをするところを、英里はこの家に来て初めて見た。
 ふたり分のコーヒーが落ちた。英里はテーブルにマグカップをふたつ並べ、コーヒーをそれらに均等に注ぐ。
 友彦は下りてこなかった。
 英里はトーストとコーヒーの朝食を終え、カバンを取りに自室へ上がった。
「友彦兄さん……僕、先に行くよ?」
 階段の手すりに手をかけて、英里は奥の扉へ言った。
「おー。英里、ひとりで行けるか? 道、分かるな?」
「うん、さすがにもう大丈夫だよ……」
 英里はしゅんとうなだれて、「ムリ、しないでね」と小さく言って階段を下りた。
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