4、金属樹-4

文字数 2,333文字

「わあ……」
 英里が小さく嘆息を漏らすと、木下が自慢そうに胸を張った。
「キレイだろ?」
「うん。へえ……こんなになるんだ」
 水ガラスを張ったガラス容器に、金属化合物の結晶を落とすと、イオン化した金属は結晶からわずかに溶け出す。水ガラスに滲み出すとそこで固まって結晶化し、そしてまたわずかにそこから溶け出る。これを時間をかけて繰り返すことで、真冬の樹氷のように枝がを伸びる。理屈は知っていたし、どんな実験かも知っていたが、リアルに目にしたのは初めてだ。
 物質によって、溶け出し方も結晶の形も異なるので、「枝ぶり」もそれぞれだった。細い針が集まったような繊細なもの。ヒバの葉のようにやや太めに伸びていくもの。
「初めて見たよ」
 食い入るように水槽をのぞいていた英里が顔を上げると、木下がニッコリ笑った。
「そうだろ。仕組みも操作もカンタンだから、実験としては超・手軽なんだけど、実際にやってみる機会はないんだよな。授業のカリキュラムにも入ってないし」
「そうそう。そうなんだよね」
 部活に来ているほかの生徒も同意する。
「わたしはこれ、小学生のときにやったんだよ。科学館のイベントで」
「へえ、それはラッキーだったね」
 木下にラッキーと言われた女生徒は、はにかむように微笑んだ。
「そうなの。すっごいキレイで、不思議で……。俄然、興味が出て来ちゃった。今わたしが理系を目指してここにいるのは、その経験のおかげかも」
 確かに。何かを志すときに、純粋に「面白い」と感じた体験は大事だ。
 自分にそんな経験はあったろうか。
 英里はこれまでの経験を振り返った。
 母は英里に表面上、いろんなことをやらせようとした。習い事も塾も通わされた。
 英里は自分から何かしたいと思ったことがなかった。ひと並にゲームくらいはしたが、時間潰しだったり、何か別の目的のついでだったりと、ゲームの面白さにハマったことはない。
 何だか、空っぽな人生だ。
 胸の辺りがスースーして、何とも居心地が悪くなる。
 英里は化学室に充満する薬品くさい空気を吸い込んだ。背筋を伸ばし、いつもの黄色い海を思い出す。タンポポの香り。温かなそよ風。
 花冠が、頚飾りが、降り注ぐように下りてきて、英里の全身を花で覆いつくす。
 頬に花びらを感じたとき、奥の準備室のドアが開いた。
「あら、あなた先週の……」
 この声は知ってる。
「橋詰さん、ちゃーす」
 木下が明るく挨拶する。
 担当教師に質問していたのか、橋詰は化学の参考書を持っていた。
「今日も見学? 何クンだっけ」
 橋詰はにこやかにそう訊いた。目は決して笑っていない。
「いえ……僕は」
「蓮見のことは俺が誘ったんす。『面白いものが見れるよー』って」
 英里が逃げ出しそうに見えたのか、木下は笑顔でそう答えながら、英里の腕に自分の腕を絡めた。
 橋詰は鷹揚にうなずきつつ、水槽を乗せた机までやってきた。
(確かに、ここで逃げたら負け……? な、気がする?)
 英里はその場に踏みとどまった。
 踏みとどまったはいいが。
 橋詰は仲良しの女子と、きゃいのきゃいのとおしゃべりを始めた。もう英里のほうは見ない。その代わり、おしゃべりの合間にチラリチラリと戸口の方に目をやる。次に誰がやって来るか、部員が揃うかどうかが気になるのだろうか。
 橋詰の顔がパッと明るくなった。
 英里の背後で戸がガラッと開いた。
「ここにいたか」
「……友彦兄さん」
 友彦が額に汗を滲ませて、大股に入ってきた。
「あー、永井さん、やっぱり来た」
 英里に引っついたままの木下が、のんびり友彦を見上げてそう言った。
「おお、金属樹か、懐かしいな」
「懐かしいでしょー」
 友彦は、ニコニコしている木下の背後まで来て、その肩をギュッと揉んだ。
「いてっ」
「木下ぁ、お前、ずいぶん凝ってるぞぉ。勉強のしすぎかあ?」
 木下はつかまれた肩の痛みに英里の腕を放した。
「そんな訳ないじゃないですか。痛い、痛いですって永井さん」
 痛みにバタバタする木下をようやく解放し、友彦は英里をのぞきこんだ。
「今日はウチのクラスのHRなかなか終わんなくって。焦って一Dの教室行ったら、いなかったから。木下も見えなかったから、ここかなって」
 五時間ぶりの友彦。英里はついポオッとなる。胸の奥がキュッと鳴る。
「当たったな」
 友彦は笑った。
 どうしてこのひとは、自分にこんなに甘く笑いかけるんだろう。こうして笑うの、クセなのかな。英里は期待しないよう、しないよう、弾みかける心臓を鎮める呪文を探す。
(でも、嬉しい)
 友彦の笑顔を見るだけでも。
 英里にとっては嬉しい瞬間だ。
「永井さん、ここのところ教えてくださぁい」
 机の向かいで、橋詰が甘えるように頼んできた。友彦は気さくに答える。
「何?」
「有機化学の、この問題なんですけど」
 参考書を掲げて見せる橋詰の手許をチラと見て、友彦は言った。
「ムリムリ。俺じゃ教えられないよ」
 友彦は空中で大きく手を振る。
「そんなこと言わないで。永井さん、化学得意じゃないですか」
「準備室に石田先生いるだろ。勉強は、教えられるひとに訊かないと」
 食い下がる橋詰を軽くいなし、友彦は英里の肩からカバンをひょいと持ち上げた。
「帰るか」
「友兄……」
「それとも、もう少し見てく?」
「ううん。帰る」
 英里は立ち上がった。
 木下に向けて小さく手を振る。
「今日はありがと、木下君」
「おー、また来いよな、『見学』に。永井さんも、またー」
「おー」
 友彦がズンズン廊下へ行くのを追いかけ、英里は戸口でチラと振り返った。
「ありがとうございました」
 そう言って英里が礼儀正しくお辞儀をすると、机を囲んでいた女生徒が「キャー」と喜んだ。
 ひとり、橋詰だけが、ただ無言でふたりを見送っていた。
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