9、ふたり-1

文字数 3,106文字

「じゃね、あまり羽目は外さないで、ふたりとも……っていうか、トモ、あんただよ」
「うるせえなあ。なんで俺なんだよ」
「だって、英くんはちゃんとしてるじゃない。心配なのは主にあんたよ」
「あー、はいはい」
 暢恵はいつものようににぎやかにバックを提げて玄関を出る。外にタクシーが迎えに来ていた。
 靴を履いた睦男が、ふと振り返って英里に言った。
「食事はカレーを煮てあるから、それに適当に野菜を合わせて食べていて」
 英里は素直にうなずいた。
「はい」
「面倒だったら、コンビニを使ってもいいから。無理しないで」
「分かりました」
 英里の横で、友彦が不服そうに口を尖らす。
「なんで英里にばっか言うんだよ」
 睦男は一瞬友彦に笑顔を向けるが、最後にまた英里に言った。
「このコの面倒は看なくていいから。君は君のペースを乱されないように」
「はい、いってらっしゃい」
 意味はよく分からないながら、英里は上がりかまちから頭を下げた。
「いってらー」
 友彦はふてくされたようにしていたが、英里と並んで手を振った。
 ふたりの乗り込んだタクシーを見送って、友彦はドアに鍵をかけた。
「……ったく、うるさいったらありゃしない。釧路でも根室でも、どこでも勝手に行けってんだよ」
 ブツクサ言いながら友彦は階段を上っていった。
 期末テストが終わった金曜日、ふたりが永井家に戻ると、有休を取った睦男と暢恵は旅支度を整えていた。
 睦男の兄のところの娘が結婚するとかで、釧路での式に呼ばれたのだそうだ。同じ北海道でも札幌からは遠く離れており、当日に出ては式に間に合わない。なので土曜昼間の式のために、ふたりは前日の金曜のうちに移動を済ませておくとのこと。
 睦男の姪ということは、友彦にとっては従姉に当たる。「どんなひと?」と英里が訊いても、友彦は「さあ? 覚えてない」とにべもない。
 友彦が消えた階段を見上げていた英里は、気を取り直して台所へ向かった。夕食まで、ここで少し勉強する。
 友彦が自室へ入ったなら、英里はその隣の部屋で、友彦の気配を感じながら正気ではいられない。
 英里は数学の問題集を開いた。昨日解いた問題の次を考えてみる。
 英里は定期テストの準備はあまりしない。予習復習を学校で済ませ、最低限記憶すべき部分を記憶したら、あとは教科書にこだわらずに各教科の問題集を解いていくのが好みだ。
 今までとくに苦労なくきたが、高一の二学期からボリュームも難易度も上がった数学は、重点的にやっていかないと。いかな英里でもついていけなくなりそうだった。
 一問目をクリアし、応用問題に取りかかった英里のシャーペンが止まった。
 例題通りの解法だけでは、どうやら解けない問題らしい。
 英里はテーブルに肘をついて考えを巡らした。
 いつもなら友彦のところへ飛んでいく。だが、今日の英里はそうしない。
(友彦兄さん……)
 今朝、ムスッとした顔で起きてきた友彦は、何とか英里と一緒に家を出たが、ほとんど口を利かなかった。ゲームの話も、友彦が貸してくれたSF小説の感想も、テストが終わったら何をしようかの計画も、どの話題にも「ああ」とか「うん」とか短く返事をするのみで、それきり会話は途切れてしまう。
 なのに、友彦の歩みはゆっくりで、英里は友彦のオレンジのジャケットを、何度も追い越してしまった。
 ゆっくり、ゆっくり、まるで英里が横にいる短い高校までの時間を、大切に、惜しむように友彦は歩いた。
 一度だけ、英里が友彦の横を追い抜きそうになったとき。
 英里の指が、友彦の指に触れた。
 電流でも走ったように、友彦は手を引っ込めた。英里が「あ……ごめん」と謝ると、友彦はブンブンと首を横に振って真っ赤になっていた。
 友彦が引っ込めた手を、もう片方の手で大事そうにさすった。肩をいからせ、そうするのを英里の目から隠すようにして。
 隠しきれていないのに。
 学校に着いて、一年と三年の靴箱へ別れてからも、友彦は英里の背を目で追っていた。
 英里は友彦の視線に気づいていた。振り返って微笑んでやったら、友彦はどんな顔をするだろう。やってみたい。見てみたい。だが、英里はしなかった。友彦の視線を首筋に捉えたまま、英里は一年の教室へ向かう廊下へ向かった。
(友彦兄さんは、きっと僕のことを……)
 今日の夜から二泊三日。夫婦は家を留守にする。
 残された子供たちは、ふたりっきりだ。
 気づくと、英里は呼吸を止めて固まっていた。テストの間中、思い出したように深呼吸しながら。指の先が冷たくなる。
 テスト期間はお互いのペースを尊重して、帰りは各自ということにしていた。
 永井家へ向いた足を、英里は途中いくどか止めた。
 怖い。
 だが、もう英里には他に行くところはないのだ。
 帰ったら。
 ふたりだけになってしまったら。
 どうなってしまうのだろう。
 期待、しない方がいいんだと英里は知っている。しちゃいけないことも知っている。
(だけど――)
 今朝、一瞬だけ友彦に触れた部分の指を小さく歯でかみながら、英里が逡巡していると、居間でカチャカチャと音がした。友彦だ。
「友彦兄さん……」
 英里が居間へ入っていくと、友彦が振り返った。
「あ、ごめん。うるさいか?」
 英里は首を振った。
「ううん、別に」
 古いアクションゲームを友彦は選んだ。
「やるか? 英里」
 友彦はTV画面を見たままそう訊いた。
 英里は数秒迷ったあと、「うん」とうなずいて友彦の横に腰を下ろした。肩や腕が触れ合うが、友彦はやっぱり嫌がらない。
 わあきゃあ言いながらコントローラーを動かしていると、肩が、膝がぶつかり合う。何度目かのきわどい場面を、ついにクリアできずにコンティニューになってしまったとき、ふたりはコントローラーを放り投げて悔しがった。
「くっそー! もう少しだったのに」
「友兄、ゴメン。僕があのとき右にかわしていられれば」
「英里じゃないよ、あの敵の動きがさあ」
 気づくと英里は友彦に脚をからめ、友彦の腕にぶら下がっていた。ハッとして英里は手足を解く。友彦は戸惑ったように英里を見て、赤い顔をしていた。
 ふたりとも、何も言えない数秒が続く。友彦はギクシャクと立ち上がった。
「のど、乾いたな」
 英里は膝を抱えその場に丸まった。やり過ぎたと思った。友彦が英里を嫌がらないのを確かめたくて、深追いし過ぎたかもしれない。友彦にその気がなくて、ヘンに思われたら終わりなのに。
 台所から友彦が訊いた。
「英里、何飲む? コーヒー?」
「あ、うん。僕淹れるよ」
 慌てて英里は立ち上がった。
「いいっていいって」
 友彦は戸棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出したところだった。
「インスタントで、いいよな」
 友彦はいたずらっぽく笑った。
 いつも豆を挽いて淹れる永井家だが、そこまでするのが面倒なときのために、インスタントの粉もある。
 英里が出したマグカップに、友彦がざっくり「こんなものか」とスプーンですくった粉を入れる。実は加減はふたりともさっぱりだ。コーヒーの味自体、よく分かっていない気がする。
 友彦が湧かした湯をふたつのカップに注ぎ、英里にひとつを手渡した。
「はい」
 友彦は笑っている。
「ありがと」
 英里は嬉しくて、伏し目がちに両手でカップを受け取った。
 ここのところ、友彦とはギクシャクしていたから、友彦からこんな風に自然な笑顔を向けられるのが本当に嬉しかった。自分はどんな顔をしているのか。ひと口熱いコーヒーをすすった自分を、友彦が嬉しそうに笑って見ている。その顔を見ていると、多分英里も、笑っているのだと思う。
 暗くなってきた台所で、ふたりは立ったままコーヒーをすすった。
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