8、ラベンダーの夕暮れ-4

文字数 1,287文字

 鍵を開けて屋内に入る。
 誰もいない永井家に、そっと靴を脱いで上がる。手足がだるい。
 南向きの居間は太陽に温められて、この時間でもほわりと暖かい。英里はソファに沈み込み、友彦に借りたSF小説をカバンから取り出した。
 居心地のよい家だ。
 こうして異分子の自分でも、ひとりくつろぐことができる。
 この家の雰囲気は、叔父の睦男と、叔母の暢恵のキャラクターによるところが大きい。穏やかな叔父とおおらかで明るい叔母。蓮見家とは大違いだ。
 英里の母、綾子は暢恵の姉だが、ふたりはまったく似ていない。暢恵は少しふくよかで美人ではない。綾子は細身の身体に整った顔。多分だが、綾子はその器量で父、信里の妻の座を得たのではないか。英里は数えるほどしか会っていない蓮見家側の親族からの印象で、そう感じていた。
 いわゆる「玉の輿」というヤツだ。
 綾子と暢恵の実家は北海道の郡部で、経済的にそう裕福な家ではなかった。地元の大学へ進み教員になった暢恵と違い、綾子は東京へ出て、どう知り合ったのかいくつか企業を保有する蓮見家の御曹司と結婚した。
 そうして順当に長男として英里が生まれ、そして、信里は自宅に寄りつかなくなった。
 性格的に冷たい綾子と、愛し合う夫婦関係が構築されていないのは、幼い英里にも感じ取れた。
 小さい頃から、家に父がいた記憶はあまりない。
 何かあれば、飛んでくるのはいつもあの柴田だ。
 成長に伴い、英里は柴田が綾子と男女の関係なのかと疑ったこともある。だが、綾子の柴田への態度は信里へよりも冷淡で、使用人としての扱いに終始していた。逆に、柴田と信里の関係は、何なんだろうと疑問に思う。まあ、秘書なのだろう。
 そうした冷たい崩壊家庭で育った自分は、人間として必要な情緒に欠いている。英里は自分のことをそう感じていた。
 だが、この暖かい家で、愛され、信頼し合い、適度に反抗して育った友彦は違う。英里が初めて間近に見た健全な少年だった。
 英里は、あの日駅まで迎えに出てくれた友彦の笑顔を思い起こした。はにかみながら、久々の従弟との再会を心から喜んでいた。
 高校への行き帰り、ままごとのような家事当番、どれも一緒にいてくれた。小さい子供のように、はしゃいでじゃれ合って、この上なく楽しい毎日をともに過ごした。
「友彦兄さん……」
 英里の唇から、甘いその名が小さく漏れた。
 彼に嫌われたら、ここでの生活も地獄だ。
 だが、英里は根拠なく、友彦が自分を嫌ってはいないと知っていた。
 英里は美しい少年だった。美しい母とそっくりの自分の姿が、多くの男たちを虜にしてきたのは事実だ。禍々しい魅力で彼らを振り回してきた。
(だから、きっと、きっと友彦兄さんも……)
 閉じた瞼から涙がひと筋こぼれる。
 そんなこと、許されないのに。
 この居心地のいい永井家を、自分が破壊するようなことがあってはならない。
 こんなまっとうな家で育った友彦を、自分の側へ引き込んでは。
(でも、もう、僕は……)
 ここしばらくぐっすり眠れていなかった。睡魔が英里の全身を襲う。
 SF小説のページに細い指をはさんだまま、英里は眠りに落ちた。
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