8、ラベンダーの夕暮れ-7

文字数 2,875文字

 睦男の「ご飯だよ」の声がするまで、友彦の姿を見なかった。
 居候の英里は、呼ばれたら「はーい」と答えてすぐに下りていく。友彦とゲームして遊んでいた日は、呼ばれる前に台所へ入り、配膳を手伝うこともある。
「珍しいね、トモが飛んでこないなんて」
 帰ってきたばかりの暢恵が部屋着に着替えてやってきた。睦男は黙って人数分の飯を盛る。
「僕、呼んできます」
 腰を浮かせた英里を暢恵は止めた。
「ああ、いいのいいの。どうせすぐ来るでしょ。放っとけばいいのよ」
 暢恵はいつものように鷹揚に笑っている。
「何か興味あることにハマると、テコでも動かなくなるのよ。男のコって、ワリとそういうとこ、ない? 英くんはそういうことないの?」
 暢恵にそう訊かれ、英里は自分のことを振り返ってみるが、とくに思い当たらない。自分で気づいていないだけだろうか。
「うーん。あんまりないですね」
「そうなんだ。英くんお行儀いいもんねえ」
 暢恵は満足そうにうなずくが、英里はそうではないように感じた。
 自分には、集中するほど興味を引かれることがなかっただけだ。
 空っぽなんだ、自分は。
「でも、あんまり遅くなると、英くんが片付けられないでしょう」
 全員分の配膳を終えた睦男が、片付け当番の英里を気づかい立ち上がった。階段の下から、睦男が友彦を促す声が聞こえた。
 しばらくして、ようやく友彦がやってきた。
「今度は何に夢中になってたの? まさか部屋でゲームしてたんじゃないでしょうね」
 暢恵が半分笑って(目は決して笑ってない!)友彦に訊いた。
 友彦は「してねえよ」と低い声で言い、むすっとしたまま英里の隣の椅子を引いた。彼の父が気づかった。
「ああ、ご飯も味噌汁も、冷めてるかな。温めようか」
「別にいい」
 友彦は言葉少なにそう答え、持ち上げた汁椀をぐいと傾けた。
 普段通りの永井家の夕食。暢恵が思いつくままにしゃべり、それに睦男がゆっくりと返す。普段ならそこで友彦がボケたりツッコんだり、親子三人の家庭の会話が続く。最近なら、話を振られた英里がギクシャクと何か返す。そんな日々だった。
 今日は、友彦はしゃべらない。箸もあまり進まない。うつむきがちに、もそもそと口を動かすだけだ。
 友彦が下りてくるのが遅かったので、すぐに英里は夕食を食べ終わってしまった。暢恵と睦男はいつものように居間へ引き上げていった。
 英里は睦男が自分たちの分と一緒に淹れ、置いていってくれた茶をひと口飲んだ。
「……友彦兄さん」
「ん」
 友彦はピクリと肩を強ばらせた。何でもないように振る舞っているが、すぐ隣に座る英里には分かる。
 多分、具合が悪いのじゃない。学校でイヤなことがあったのでもない。家庭内でもトラブルはなかった。とすると、思い当たる原因は。
「……僕、何かした?」
 英里がおそるおそるそう訊くと、友彦はすごい勢いで首を振った。
「そんな。そんなことない」
 テーブルに箸を置いて真っ向から否定する友彦は、友彦の表情をうかがう英里と目が合うと、慌てて視線をそらした。
 背を伸ばし、真っ正面を向いて箸を取り上げたが、友彦は白米をもう一度口にして、それきりカチャリと茶碗を置いた。
 食欲がないのだろうか。英里は食が進まない友彦に言った。
「……お茶、飲む? 淹れるよ」
 友彦は下を向いて、苦しそうに返事した。
「……うん」
 英里は睦男が置いていった急須にポットの湯を注ぎ、友彦の使っているマグカップを取り出した。そして黙ってうつむいている友彦の前にそっと緑茶の入ったマグを置いた。
「はい」
「ありがと」
 友彦はマグの把手に指をかけた。卓の上を引きずって唇の前まで持っていき、だがそれを飲むでもなく、湯気に睫毛を揺らす。
 空になった食器は、洗う。
 中味が残っているものは、ラップをかけて冷蔵庫にしまう。
 英里が習った片付けのルールだ。ラップをかける代わりに、保存容器に空けてもよい。量や形状によって、臨機応変に対応すること。大雑把な暢恵のルールだから、誰でも適応しやすくて助かる。
 英里はラップを手に取った。
「冷蔵庫にしまっておくね」
 友彦の食べのこしの皿を持ち上げようとした英里の手を、友彦がつかんだ。
「いい」
 友彦の骨張った指にガッチリ手を握られた。英里の心拍数が上がる。温かい、熱い手だ。
 友彦は自分の手の中の英里の手首に気づき、慌ててその細さを放した。
「ご……ごめん……」
 友彦に謝られ、英里はつかまれた自分の右手を頬に寄せた。友彦の指のリアルな感触。
 英里が黙っているので、友彦はギクシャクと立ち上がった。
「じ、自分でやるから。明日の朝続きを食べるよ。最近寒いし、冷蔵庫に入れなくても明日までなら持つからさ。ふんわり、ふんわりな」
 友彦は英里の指に触れないように慎重に、英里の手からラップを取り上げ、皿との間に隙間を保ってラップをかけた。
「通気性を保っておいた方が、腐らないんだ。はは、面白いよな。腐敗菌って嫌気性なのかな」
「そうなん……だ……」
 英里はドキドキしている胸の内を知られないように、何でもない風を装って蛇口を捻る。
 スポンジをキュキュと動かしていると、いつものように友彦が手伝ってくれる。
「友彦兄さん、もう僕、ひとりでも大丈夫だよ」
「うん」
「勉強……しなよ。来週また模試でしょ」
「うん。でも、ふたりでやれば早いだろ。いつもそう言ってるじゃん」
「そうだけど。これじゃ当番の意味ない」
「いいの。俺がやりたくてやってんの」
 友彦は優しい。その声も優しい。学校で、木下や後輩たちとしゃべるときは、もっとぶっきらぼうで声のトーンも一、二段低いのを英里は聞いた。だが、英里とふたりのときは優しい声で、何とも甘い。
 これで誤解しない方が難しい。
 隣で食器を拭きあげる友彦の体温。これが英里に許された友彦の全て。
「英くーん、お風呂、入っちゃってよ。トモも」
 明るい暢恵の声が英里の後ろめたい思いを断ち切った。ビクリとして英里は居間の方を振り返る。
「はーい」
 慌ててそう返事して、英里は友彦とどっちが先に入ろうか相談しようとした。英里が口を開きかけたとき、友彦はパサッとふきんを乱暴にかけた。
「英里、先に入れよ」
 ぼそりとそれだけ言って、友彦は台所を出ていった。
「あ……うん……」
 英里もそれだけ答え、友彦の背を見送った。いつも見ているこの背中だ。外ではいつもオレンジのジャケットを着ている。
 友彦のジャケット。
 英里は、うたた寝から覚めた夕暮れの居間を思い出す。
 買いものから帰って、友彦はソファで眠りこんでしまった英里に、自分のジャケットをかけてくれていた。
 夢から覚める直前の、あの柔らかな唇の感触。
 あの感触は、リアルだった。
 夢――。
 本当に、恋する英里の悲しい夢だったのか。
 それを確かめる術はない。
 おかしいほど緊張している友彦の、妙にギクシャクとよそよそしいあの態度。そのくせ英里の食器洗いは手伝って。
 居間では、暢恵が何やら友彦をからかって話しかけている。「うるせえな」と友彦はひと言返し、サッサと二階へ引き上げて行った。
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