7、つのる思い-3

文字数 2,266文字

 そうして朝方うっすら眠りについたが、いつもと変わらず朝は来る。
 ドンドンドンドン。
「英里?」
 ドンドンドンドン。
「英里ー!」
(んー……?)
 ドンドン。
「英里ちゃん、入るよ……」
 遠慮がちな声がして、キイと部屋の扉が開いた。
「ン……」
 英里はぼんやりして、意識がすぐに戻らない。
「大丈夫? 具合悪いの?」
「ん……」
 目をこすった手をどけると、友彦がのぞき込んでいた。
「……ともにぃ……」
 友彦は英里のベッドに腰かけた。
「疲れが出たのかな。でも、学校行くならもう起きないと」
 具合は、悪くない。ただちょっと、夕べなかなか眠れなかっただけ。
 夜通し遊んで朝寝坊の生活を数週間経た英里の身体は、たやすくそのサイクルに戻ってしまう。気をつけなければ。
「……平気。起きる」
 英里は半身を起こした。
「……ごめん……僕ホントは、朝ニガテなんだ……」
 英里は呟くようにそう言って、ベッドの縁に腰かける友彦のすぐ横で伸びをした。掛けぶとんがバタリとはだけた。友彦は気の毒そうに言った。
「うん……ゆっくり寝かしてやりたい……けど…………でも…………」
 友彦はそこで口を閉じた。
(?)
 どうしたのだろう。
 英里が眠い目を開けると、友彦は身じろぎもせず、一点を見つめたまま固まっていた。
 英里は友彦の視線をたどった。パジャマの合わせ目からのぞく英里の裸の肌。友彦の視線を、英里の白い胸が吸い寄せていた。
(あ……)
 ボタンを上まで止めないのは英里のクセだった。
 白い素肌に、英里は思わせぶりな指をやる。彼の視線がそれないよう、ついついもっと見たくなるよう、無意識を装って鎖骨から下へ――。
 英里の身体の芯がヒクリと疼く。熱くなる。
 その視線に形にならない欲望を読み取ったのは、英里の願望だったろうか。
 欲しい。その欲望を、向けられたい。
 英里は寝起きの熱い唇をうっすら開く。
 友彦は突然英里から離れて下を向いた。
「ご、ごめん、起こして。でも」
「友彦兄さん」
「じ、じゃあ俺、下に下りてるから」
 友彦はギクシャクと立ち上がった。その顔は見えない。
「今日は英里、コーヒーと紅茶とどっちがいい?」
「コーヒー」
 耳を赤くした友彦は、コクコクとうなずいて扉を開けた。
「分かった。英里の分も淹れておくから。早く起きな、冷めないうちに」
「はあい」
 友彦が階段を下りていく足音がした。英里はベッドの中でいつもより少しテンポの速いその音を聞いていた。
 英里はゆっくりとベッドを降りた。
 机の隅に置いた鏡が目に入る。
 だらしなく乱れたパジャマの合わせ目。
 友彦の目には、しどけなくはだけた白い肌と映っただろうか。
 単なる親戚の、男の身体ではなく。
 もっと見たい、触れたいと、欲望を掻き立て引きつけるアイコンでいられただろうか。
「友兄……」
 膝が、震える。
 視界がぼやける。
(ダメだ)と英里は自らを制した。
 これ以上考えを進めると、また暗い穴に落ちてしまう。
 歓喜と絶望と、この世の天国と地獄を振り子のように行ったり来たり。
 濁流に呑み込まれ弾き飛ばされるような日々は、英里を疲れさせた。今朝時間に起きられなかったのは、多分そのせいで。
 英里は大きく首を振った。
 うまく、やらなければ。
 こんな気持ちは隠し通して。
 ここにいられなくなったら、今度こそどこにも行くところがない。
(どうして――)
 どうしてこんなことになってしまったのか。

 英里はふらつきながら台所へ降りていった。
「英里。はい、コーヒー。熱いから気をつけてな」
 友彦が淹れたばかりのコーヒーをカップに注ぎ、手渡してくれた。
「ありがと……」
 英里は熱いコーヒーをほんの少しすすった。
「メシ、食えるか? 今日は父さんがオムレツ作っていってくれたけど」
 朝早い叔父叔母は、すでに出勤したあとだった。よれよれの姿を彼らに見せずに済んでよかった。
「うん……食べる」
 友彦は異常にかいがいしく、「はい」と英里の指にフォークを握らせる。卵の香りにケチャップの酸味が英里を少し目覚めさせた。
 最近どこかよそよそしかった友彦なのに。
 英里が何とかひと口オムレツを口にしたのを見届けると、友彦は立ち上がった。
「無理しなくていいけど、食えるだけ食っておけ、な」
 食欲のない英里がなんとか朝食を流し込む間に、友彦はふたり分のカバンを下ろし、出かける準備を整えた。
 おかしい。いくら友彦が優しくも、こんなにしてくれたことはない。
 英里は睡眠不足の働かない頭で考えた。
 いつもと違うのは、さっき寝坊した英里を起こしにきてくれたこと。
 英里の裸の胸から視線を外せなくなって、無遠慮に見つめていたあと、焦って部屋を後にしたこと。
 その耳までを真っ赤にしていたこと。
 もしかして、後ろめたさを感じているのだろうか。
 それとも、ちょっとした気まずさを、吹き飛ばそうとして?
「じゃ、出るぞ」
 かいがいしく友彦に世話を焼かれて、英里は幸せだった。友彦が何でもしてくれるのが嬉しくて、余計にボーッとした振りをしてしまった。
「はぁい……」
 最後、玄関でスニーカーの紐を友彦に結んでもらい、友彦に両手を引っ張ってもらって立ち上がった。
「さあ、英里。ちょっと急ぐよ」
「はぁい」
 このくらい。
 このくらい甘えたって、いいじゃないか。
 このひとは僕の手には入らないんだから。
 オレンジの背中がぼやけた。英里は慌てて「くしゅん」と鼻をかんだ。
「英里、もしかしてカゼか? 無理しないで、今日は休むか?」
 友彦はやっぱり優しい。英里は「大丈夫」と小声で言って、小さく首を振った。
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