1、北へ-5

文字数 901文字

 隣の部屋のドアが開く音がして、すぐに閉まった。
 足音が隣の部屋を横切って、勉強机の椅子がギシと鳴った。
 そこまで聞いて、英里はベッドの上にパタリと倒れ込んだ。少しだるい。疲れているのだろう。
 朝、早かったし。
 シーツもかけてないし、上掛けもたたんだままベッドの上に置かれている。メイキングは自分でしないと。今寝込んでしまってはいけない。
 そう思いながら、英里は起き上がれず寝転んだままでいた。
 慌ただしすぎて、自分の身に起こったことが整理できない。
 今朝も蓮見の家を出たのは八時だった。
 ここ数日のことは思い出したくない。英里は記憶の整理を放棄した。今さらだ。
 今日見た景色。寒々しい田園。流刑地を移動する車窓。住んでいるひとには失礼極まりないが、そんなイメージが英里の心を冷やす。英里はまたいつもの黄色い温かな海へ逃げ込む。
 頬を撫でるそよ風。花の香り。穏やかな温もり。
 英里を大切にしてくれる誰か。その手が幾重にも載せてくれる花冠。掛けてくれる首飾り。
(エリちゃん……)
 友彦の声が耳に蘇った。
 ヤバイ。
 身体が……反応する。
 英里は唇をかんだ。
 考えが浅かった。「タイプ」ってのはこういうことか。
 冒険を母に見られ、英里の自堕落な生活が暴き出されてから。
 最後にしてから、十日経っている。
 あのとき、最後のあの朝は、誰といたっけ。
 英里はそれなりに楽しんだ記憶を手繰った。
 身体に残った感触を思い起こした。
 そのひとも、それなりに英里のことが気に入っていて、何度かは冒険を伴にした筈だった。だから、ある程度英里の身体を知っていて、それで――。
 思い起こそうとしたが、そのたび記憶の中の誰かは友彦の顔になった。何度も友彦のイメージを追い払おうとしたが、ダメだった。友彦が呼ぶ自分の名が、その声が妙に甘くて。
 倒れ込んだベッド。壁の向こうに友彦がいる。
(ああ――――!)
 どうしよう。
 こんなこと、もし知られたら。
 自分はもう、どこにも行くところがない。
 帰れるところももうないのに。
 どうしよう。
 英里はこの騒動が始まって以来、初めて。

 泣いた。 

 そうして英里は生涯でたった一度の恋に、落ちた。
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