9、ふたり-2
文字数 2,392文字
夕食にはカレーがあれば充分だったが、友彦は冷蔵庫をかき回してキャベツの玉を取り出した。
「英里は育ちがいいからさあ。もっとウマいもんいっぱい食べてんだろうけど」
友彦はそう言って、鍋に湧かした湯に千切ったキャベツをポンポン放り込んだ。
「そ、そんなことないよ」
食生活については、永井家の方がずっと豊かだ。ここへ来る前は外食かコンビニで、野菜なんて食べてなかった。実家にいた頃、綾子が何を用意していたかなんて覚えていない。多分、デパ地下の惣菜やら、家事代行のひとの作り置きやら、そんなものだったのだろうと思う。味気ない食卓だった。
だが、そんなことを友彦には言いたくない。英里は笑って下を向いた。
「よっと。ほら、キャベツの甘みそ和え」
「うわあ、おいしそう。友彦兄さん、料理うまいねえ」
友彦が渡して寄越したひと品を、英里は褒めた。ちょっと大袈裟だったかなと思ったが、このくらいにしてないと、また緊張してギクシャクしてしまう。
友彦も緊張しているのが分かる。いつもより言葉数が多い。
「『みそ』って言うけどさあ、普通のみそじゃないのよ」
「へえ、そうなの?」
「うん、中国の調味料で、小麦を発酵させたものなんだって。甘みづけに使うと野菜がうまいんだ」
「ええ、友兄、マジで料理レベル高いね」
「いや、これは母さんの受け売り。あのひと、味にはうるさいから。うまいものに目がなくて」
「ふふ。そんな感じする」
英里はふたり分、皿に米を盛って友彦に手渡した。
「このくらいでいい?」
と訊くと、
「あー、ちょうどよさそう、ありがとう」
と返ってくる。
ギクシャクする前に、戻ったみたいだ。
「あ、スプーン」
出すのを忘れていた。英里は戸棚の抽斗を開けた。
「はい、友兄」
カツンと硬質な音がした。
友彦に手渡そうとしたスプーン。受け取ろうとした友彦と指が触れ合ってしまった。友彦は慌てて手を引っ込め、それで床に落ちてしまった。
友彦は真っ赤な顔をして、握りこぶしでそれを隠そうとしている。
英里は床にかがんだ。
「いいよ英里、俺が」
「もう拾ったよ。大丈夫」
英里は持っていた方のスプーンを友彦の席に置き、拾った方を軽く洗った。
「ご、ごめん」
友彦は謝った。
「ううん」
英里は首を横に振った。
友彦は何に対して謝ったのだろう。
スプーンを拾わせ、洗わせたこと?
慌てて手を引っ込めたこと?
指が触れてしまったこと?
ドギマギしている様子の友彦の向かいに、英里は座った。
「いただきます」
よそったばかりのカレーをすくって口へ運ぶ。
英里は何でもない風を装った。
本当は英里だってドキドキしている。
動揺、していた。
友彦の指に触れたこと。
その手を慌てて引き上げられたこと。
だが、自分も一緒にうろたえていてはいけない。
普通に、なるべく普通にしていなきゃ。
英里の胸では、甘い嵐が吹き荒れている。友彦の過敏な反応に、もっとつけ込もうと次のアクションを考えてしまう。
なのに、その勇気が出ない。
あの指に、自分の指を絡ませて、口づけたい。
友彦は怯んで逃げ出すか、それとも受け入れてくれるだろうか?
逃がさない。あの肩に体重をかけて、唇に快楽を探して――。
これまでいつもそうしてきた。だが、友彦相手にそれはできない。
友彦は動揺している。脈がある証拠だと、願うように英里はそう思う。もうひと押しで、このひとは自分の手に堕ちてくると。
分かっているのに、怖い。
もし。
もし友彦が堕ちなかったら。英里の正体がバレただけで終わる。そうなったら、以降の生活は針のむしろだ。ここを出ていかなければならないだろう。そうしたら、自分はどこへ行く? もう行くところなんかない。
もし友彦が堕ちてきたら。自分をこんな時期に引き受けてくれた叔父と叔母に申し訳ない。それに、友彦は受験生だ。
何も考えず夜の街で冒険していたとき、英里はこんなに恐怖を感じたことはなかった。失敗は怖くなかった。好奇心が満たされることに何の怖れもなかった。誰のことも大事じゃなかったからだ。街では自分も相手も匿名で、どこの誰かも関係なかった。
今、共通のルーツを持つ従兄を前にして、そんななげやりな気楽さはない。
いつもは夫婦が向かいに座り、友彦の隣に自分が座る。だが今日はテーブルを広く使える。普段の友彦の席の向かい、叔父の睦男の席に英里はかけた。そうするのが自然だろうと計算した。
友彦は肩で大きく深呼吸して席に着いた。食べ始めると、いつものようにパクパクと早いペースで食べ進む。いつもの会話もなく、ひたすら睦男の用意したカレーを平らげる。
しんと静かな、だがテーブルの下では不穏なマグマが膨れるような食事を終え、英里は立ち上がった。
「あ、俺、洗うよ」
友彦はシンクの前で、英里の腰を後ろからを両手でそっとつかんだ。
「友彦兄さん……」
友彦は英里の身体をシンクの前からよけ、自分が代わりにそこへ立つ。
「さっきも洗ってもらったし」
「そんな、あんなの」
「いい、いい」
友彦はスポンジをつかみ洗剤を振りかけた。取り返そうとする英里を腕でガードし、友彦は英里に言った。
「じゃあさ、英里はお茶淹れてよ。何でもいいから」
こんな優しく微笑まれたら。
もう英里には何もできない。
「……分かった。こないだの、カモミールのお茶でいい?」
「ああ。ありがと」
抱きしめられるかと思った。
さっき、シンクの前で友彦に身体をつかまれたとき。
そのまま腕を回されるかと思った。
後ろから抱きしめられて、あの胸に包み込まれたら。
ふたり分の食器はすぐに洗い終わる。友彦が手を拭いたとき、ふたり分のマグから湯気が上がった。夕方友彦がインスタントコーヒーを淹れたときと同じように、ふたりは立ったままハーブティを飲んだ。
無言のまま目が合った。友彦は目をそらし、「風呂入るわ」とカップを置いた。
「英里は育ちがいいからさあ。もっとウマいもんいっぱい食べてんだろうけど」
友彦はそう言って、鍋に湧かした湯に千切ったキャベツをポンポン放り込んだ。
「そ、そんなことないよ」
食生活については、永井家の方がずっと豊かだ。ここへ来る前は外食かコンビニで、野菜なんて食べてなかった。実家にいた頃、綾子が何を用意していたかなんて覚えていない。多分、デパ地下の惣菜やら、家事代行のひとの作り置きやら、そんなものだったのだろうと思う。味気ない食卓だった。
だが、そんなことを友彦には言いたくない。英里は笑って下を向いた。
「よっと。ほら、キャベツの甘みそ和え」
「うわあ、おいしそう。友彦兄さん、料理うまいねえ」
友彦が渡して寄越したひと品を、英里は褒めた。ちょっと大袈裟だったかなと思ったが、このくらいにしてないと、また緊張してギクシャクしてしまう。
友彦も緊張しているのが分かる。いつもより言葉数が多い。
「『みそ』って言うけどさあ、普通のみそじゃないのよ」
「へえ、そうなの?」
「うん、中国の調味料で、小麦を発酵させたものなんだって。甘みづけに使うと野菜がうまいんだ」
「ええ、友兄、マジで料理レベル高いね」
「いや、これは母さんの受け売り。あのひと、味にはうるさいから。うまいものに目がなくて」
「ふふ。そんな感じする」
英里はふたり分、皿に米を盛って友彦に手渡した。
「このくらいでいい?」
と訊くと、
「あー、ちょうどよさそう、ありがとう」
と返ってくる。
ギクシャクする前に、戻ったみたいだ。
「あ、スプーン」
出すのを忘れていた。英里は戸棚の抽斗を開けた。
「はい、友兄」
カツンと硬質な音がした。
友彦に手渡そうとしたスプーン。受け取ろうとした友彦と指が触れ合ってしまった。友彦は慌てて手を引っ込め、それで床に落ちてしまった。
友彦は真っ赤な顔をして、握りこぶしでそれを隠そうとしている。
英里は床にかがんだ。
「いいよ英里、俺が」
「もう拾ったよ。大丈夫」
英里は持っていた方のスプーンを友彦の席に置き、拾った方を軽く洗った。
「ご、ごめん」
友彦は謝った。
「ううん」
英里は首を横に振った。
友彦は何に対して謝ったのだろう。
スプーンを拾わせ、洗わせたこと?
慌てて手を引っ込めたこと?
指が触れてしまったこと?
ドギマギしている様子の友彦の向かいに、英里は座った。
「いただきます」
よそったばかりのカレーをすくって口へ運ぶ。
英里は何でもない風を装った。
本当は英里だってドキドキしている。
動揺、していた。
友彦の指に触れたこと。
その手を慌てて引き上げられたこと。
だが、自分も一緒にうろたえていてはいけない。
普通に、なるべく普通にしていなきゃ。
英里の胸では、甘い嵐が吹き荒れている。友彦の過敏な反応に、もっとつけ込もうと次のアクションを考えてしまう。
なのに、その勇気が出ない。
あの指に、自分の指を絡ませて、口づけたい。
友彦は怯んで逃げ出すか、それとも受け入れてくれるだろうか?
逃がさない。あの肩に体重をかけて、唇に快楽を探して――。
これまでいつもそうしてきた。だが、友彦相手にそれはできない。
友彦は動揺している。脈がある証拠だと、願うように英里はそう思う。もうひと押しで、このひとは自分の手に堕ちてくると。
分かっているのに、怖い。
もし。
もし友彦が堕ちなかったら。英里の正体がバレただけで終わる。そうなったら、以降の生活は針のむしろだ。ここを出ていかなければならないだろう。そうしたら、自分はどこへ行く? もう行くところなんかない。
もし友彦が堕ちてきたら。自分をこんな時期に引き受けてくれた叔父と叔母に申し訳ない。それに、友彦は受験生だ。
何も考えず夜の街で冒険していたとき、英里はこんなに恐怖を感じたことはなかった。失敗は怖くなかった。好奇心が満たされることに何の怖れもなかった。誰のことも大事じゃなかったからだ。街では自分も相手も匿名で、どこの誰かも関係なかった。
今、共通のルーツを持つ従兄を前にして、そんななげやりな気楽さはない。
いつもは夫婦が向かいに座り、友彦の隣に自分が座る。だが今日はテーブルを広く使える。普段の友彦の席の向かい、叔父の睦男の席に英里はかけた。そうするのが自然だろうと計算した。
友彦は肩で大きく深呼吸して席に着いた。食べ始めると、いつものようにパクパクと早いペースで食べ進む。いつもの会話もなく、ひたすら睦男の用意したカレーを平らげる。
しんと静かな、だがテーブルの下では不穏なマグマが膨れるような食事を終え、英里は立ち上がった。
「あ、俺、洗うよ」
友彦はシンクの前で、英里の腰を後ろからを両手でそっとつかんだ。
「友彦兄さん……」
友彦は英里の身体をシンクの前からよけ、自分が代わりにそこへ立つ。
「さっきも洗ってもらったし」
「そんな、あんなの」
「いい、いい」
友彦はスポンジをつかみ洗剤を振りかけた。取り返そうとする英里を腕でガードし、友彦は英里に言った。
「じゃあさ、英里はお茶淹れてよ。何でもいいから」
こんな優しく微笑まれたら。
もう英里には何もできない。
「……分かった。こないだの、カモミールのお茶でいい?」
「ああ。ありがと」
抱きしめられるかと思った。
さっき、シンクの前で友彦に身体をつかまれたとき。
そのまま腕を回されるかと思った。
後ろから抱きしめられて、あの胸に包み込まれたら。
ふたり分の食器はすぐに洗い終わる。友彦が手を拭いたとき、ふたり分のマグから湯気が上がった。夕方友彦がインスタントコーヒーを淹れたときと同じように、ふたりは立ったままハーブティを飲んだ。
無言のまま目が合った。友彦は目をそらし、「風呂入るわ」とカップを置いた。