3、当番-1

文字数 1,472文字

 暢恵が立ち上がった。
「んじゃ、英くん、洗いものよろしくぅ」
 英里は素直にうなずいた。
「はい」
 永井家の遅めの夕食は、料理当番の暢恵か睦男のどちらかが帰って支度をして、そこからはかなりバタバタだ。受験生の友彦は、先月から当番免除になっているらしい。
「じゃ友兄、料理できるの?」
 英里は泡だらけにしたスポンジを不器用に動かしながら訊いた。
「あー、そんな大したモンは作れないけど、一応な。せいぜいテキトーに野菜と肉を炒めるくらい。短時間でできるヤツ」
 英里が洗った食器を、友彦は隣ですすぎ水切りカゴに伏せていく。
 友彦は「まだ食器の場所が分からないだろ」と、自ら進んで英里の片付け当番を手伝ってくれていた。暢恵と睦男は英里と、かいがいしく英里の世話を焼く息子を、笑顔で台所に置いていった。
「すごいねえ」
 自炊するからと便利なところに部屋を借りてもらったくせに、家の中のことをろくすっぽしなかった英里とはえらい違いだ。
 ぽかんと見上げる英里に、友彦は笑った。
「そんなひと事みたいに言ってるけどな、英里だって、慣れてきたら炊事当番入れられるぞ」
 家庭用の流しに高校生男子がふたりで向かうと、ふたりの身体はかなり近い。英里はそわそわするような、ドキドキするような、不謹慎な気持ちを気取られないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「えー、どうしよ。僕何もできないよ」
 ひと通り洗い終わり、英里は友彦が積み上げた食器を拭き始めた。水切りカゴの中では四人分の食器が、微妙なバランスを取りながらオブジェのように重なっていた。さながら空中を揺れるモビールのようだ。
 ジェンガを崩さないように一枚一枚、そっと持ち上げる英里の隣で、友彦もふきんを手に取った。
「大丈夫大丈夫。テキトーなのなら、すぐできるようになるから」
「そうかなあ」
「うん、初めのうちは俺手伝うし」
 ん?
「友兄……」
 友彦が当番から外されている理由は。
「……だめだよ、友兄は受験生でしょ? 勉強する時間を確保するために、今は免除されてるんだって言ってたじゃん」
「あー、まあ、そうな」
 友彦は英里の手からふきんを取り上げ、ざぶんと洗い桶に漬けた。
「ま、うまくやるから、英里は気にすんな」
 友彦はふきんを水洗いして、パンパンと叩き干していく。初めて見る作業だ。あっけに取られてただ眺めている英里を、友彦は楽しそうに振り返った。
「珍しいか? ホント、英里はお坊ちゃまだな。箱入りってヤツか」
 英里はぶんぶんと首を振った。
「止めてよ『お坊ちゃま』なんて」
 言われ馴れた蔑称だ。東京で通っていた学校も人々からは「お坊ちゃま学校」と言われていた。やっかみの中に少しの軽蔑が含まれる音の連なり。
「……世間知らずなのは、否定できないけど」
 英里は長いその睫毛を伏せた。
 ここしばらくの「冒険」で、英里もいわゆる「世間」を知った。危険と隣り合わせの夜を漂い、投げやりに身を投じたその界隈で、最低限自分の身を守る方法を学んだ。
 ただ、自分の知った界隈の「常識」が、友彦たちの住む「普通の世間」とズレていることも知っている。
 深海の物理法則は、陸の上とはいろいろと異なるのだ。
 友彦が明るい声で言った。
「だから、可愛いんじゃん」
 英里が目を上げると、屈託のない笑顔がこちらを見ていた。
「じゃあ、次はしまう場所な。茶碗と汁椀はここの戸棚、この皿はウチでは頻出でここ、それからこの小鉢は……」
 英里のもの思いに気づかない友彦は、説明しながらテキパキを食器をしまっていく。
 甘い不安が胸を侵す。英里は友彦の説明にひとつひとつ素直にうなずいた。
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