5、執着-2
文字数 1,970文字
夕食での両親との会話に、友彦はプリプリして自分の部屋へ入ってしまった。
まあ、半分は、友彦なりのギャグなんだろうが。
英里は、自室のベッドの上にごろりと横になった。
友彦に付き合って勉強していなければ、英里自身にすることはない。
宿題は休み時間に終わらせてきた。
趣味もない。やりたいことなんて、何もない。
本でも読もうかと、数日前友彦の部屋から借りてきたSF小説を手に取った。数ページをパラパラめくる。友彦は「面白かった」と言っていたが、こういうものは読みつけないと楽しめない。楽しむには一定の鍛錬が必要だ。
しばらく紙面を眺めていた英里は、ふと壁に目をやった。
この壁の向こうに、友彦がいる。
壁向こうから、時折ギイと椅子が鳴る音が聞こえる。
英里は身を少し起こして、壁に触れた。
ほんの一、二メートル先にいるはずの、従兄。
優しくって、いつも英里には甘くって、英里をのぞき込んで笑うその笑顔も甘い。
多分、何の邪気もない、お気に入りの従弟を可愛がっているだけの。
(友彦兄さん……)
だが、自分は。
英里はそうじゃない。
とっくに、そうじゃなくなっていた。
友彦に触れられるたび、その指に特別の感情がないことに落胆する。
英里は瞼を閉じた。
指が、震える。
――――ダメだ。
泣いてしまいそう。
英里は壁に触れていた指をギュッと握って立ち上がった。
「友彦兄さん……」
コンコンと隣室の扉を叩く。
「はい」
返事がしたのを確認して、遠慮がちに英里はドアノブを押した。
「ごめん……友兄、ちょっとだけ数学教えて」
戸口を振り返った友彦は、いつものように優しいお兄ちゃんの顔で笑った。
「いいよ。おいで」
英里もニコッと笑顔の形に唇を上げて、抱えていた教科書を開いた。
「ここなんだけど……」
「うん」
机に向かう友彦の手許をのぞき込む。その姿勢に友彦が気づいた。
「英里、自分の部屋から、椅子持っといで」
「え? 大丈夫だよ」
「いいから。腰が痛くなっちゃうよ」
「はーい」
(友彦兄さん……)
こんな小さな気づかいが嬉しい。
友彦は英里の差し出したノートに、説明しながら問題を解いてみせてくれた。いつもより丁寧な字を書いて。
「んで、ここが、……こうなるだろ」
「うんうん」
「だから」
「うん」
台所のテーブルを挟んでよりも、身体が近くて、そのせいか友彦の声もいつもより低い。ところどころささやきのようになる友彦の声を、聞き逃したくなくて、英里も身を近く寄せてしまう。
「……で、これとこれが解となる訳」
「わあ」
本当は、この解き方はもう知ってる。前の学校で一学期にやった。まだ毎朝学校に通っていた頃。もう思い出したくない。その後の出来事は、なかったこと、嘘の記憶として封印してしまいたい。
「ありがとう、友兄」
英里がノートから顔を上げると、すぐ目の前で友彦が笑っていた。
「いいよ。ちょうど息抜きしたかった」
机に頬杖をついて、友彦は英里にそうささやく。
(好き……)
胸が熱い。目がじーんと熱くなって。
(友兄……!)
泣いてしまいそう。
この従兄の肩に抱きついてしまいそう。
英里は顔を背けた。
「ごめんね、勉強の邪魔して」
「邪魔じゃない!」
英里の言葉を友彦は急いで否定した。
その勢いに、思わず英里は身をすくめた。
「邪魔じゃ……ないよ。英里なら。全然……」
言い訳のように、友彦はボソボソとそう言った。
机の電気スタンドに、友彦の頬が赤らんだように見えた。本当にそうだろうか? 英里には確信が持てない。青白い蛍光灯の光は、見るものの色を白く透明に変える。
「そお? じゃあ」
そうだったらいいのに。友彦が「英里なら邪魔じゃない」と言う気持ちが、英里の願ったものだったら。英里が友彦に抱いてしまった感情を、友彦も同じように英里に向けてくれていたら。
夢見る余地は、あると思う。可能性は、あるんじゃないか。英里はその可能性を、友彦の瞳に見出そうとした。直視できない恥ずかしさを押して、英里はやっとのことで友彦の目を見た。
友彦の、優しい、焦げ茶の瞳。
分からない。友彦は自分に好意を持ってくれてる。それは確かだ。
だが。
その好意は、自分の抱く感情と同じものかは分からない。後ろめたい英里の欲望と。
友彦は、普通の家庭で健全に育った普通の男のコで、だから英里のような暗い思いとは無縁で、だから――。
そうして何秒、友彦の瞳をうかがっていたろうか。
やがて英里は小声で言った。
「……分かんなくなったら、また来るね」
「うん。いつでも来て」
友彦の声は優しかった。
英里はゆっくりうなずいた。大好きな、友彦兄さん。
「うん。友兄も、いつでも訊いてね。英語なら力になるから」
「分かった」
「じゃあ」
「うん」
英里は椅子を持ち上げドアを開けた。
「おやすみ、友兄」
「ああ、おやすみ」
まあ、半分は、友彦なりのギャグなんだろうが。
英里は、自室のベッドの上にごろりと横になった。
友彦に付き合って勉強していなければ、英里自身にすることはない。
宿題は休み時間に終わらせてきた。
趣味もない。やりたいことなんて、何もない。
本でも読もうかと、数日前友彦の部屋から借りてきたSF小説を手に取った。数ページをパラパラめくる。友彦は「面白かった」と言っていたが、こういうものは読みつけないと楽しめない。楽しむには一定の鍛錬が必要だ。
しばらく紙面を眺めていた英里は、ふと壁に目をやった。
この壁の向こうに、友彦がいる。
壁向こうから、時折ギイと椅子が鳴る音が聞こえる。
英里は身を少し起こして、壁に触れた。
ほんの一、二メートル先にいるはずの、従兄。
優しくって、いつも英里には甘くって、英里をのぞき込んで笑うその笑顔も甘い。
多分、何の邪気もない、お気に入りの従弟を可愛がっているだけの。
(友彦兄さん……)
だが、自分は。
英里はそうじゃない。
とっくに、そうじゃなくなっていた。
友彦に触れられるたび、その指に特別の感情がないことに落胆する。
英里は瞼を閉じた。
指が、震える。
――――ダメだ。
泣いてしまいそう。
英里は壁に触れていた指をギュッと握って立ち上がった。
「友彦兄さん……」
コンコンと隣室の扉を叩く。
「はい」
返事がしたのを確認して、遠慮がちに英里はドアノブを押した。
「ごめん……友兄、ちょっとだけ数学教えて」
戸口を振り返った友彦は、いつものように優しいお兄ちゃんの顔で笑った。
「いいよ。おいで」
英里もニコッと笑顔の形に唇を上げて、抱えていた教科書を開いた。
「ここなんだけど……」
「うん」
机に向かう友彦の手許をのぞき込む。その姿勢に友彦が気づいた。
「英里、自分の部屋から、椅子持っといで」
「え? 大丈夫だよ」
「いいから。腰が痛くなっちゃうよ」
「はーい」
(友彦兄さん……)
こんな小さな気づかいが嬉しい。
友彦は英里の差し出したノートに、説明しながら問題を解いてみせてくれた。いつもより丁寧な字を書いて。
「んで、ここが、……こうなるだろ」
「うんうん」
「だから」
「うん」
台所のテーブルを挟んでよりも、身体が近くて、そのせいか友彦の声もいつもより低い。ところどころささやきのようになる友彦の声を、聞き逃したくなくて、英里も身を近く寄せてしまう。
「……で、これとこれが解となる訳」
「わあ」
本当は、この解き方はもう知ってる。前の学校で一学期にやった。まだ毎朝学校に通っていた頃。もう思い出したくない。その後の出来事は、なかったこと、嘘の記憶として封印してしまいたい。
「ありがとう、友兄」
英里がノートから顔を上げると、すぐ目の前で友彦が笑っていた。
「いいよ。ちょうど息抜きしたかった」
机に頬杖をついて、友彦は英里にそうささやく。
(好き……)
胸が熱い。目がじーんと熱くなって。
(友兄……!)
泣いてしまいそう。
この従兄の肩に抱きついてしまいそう。
英里は顔を背けた。
「ごめんね、勉強の邪魔して」
「邪魔じゃない!」
英里の言葉を友彦は急いで否定した。
その勢いに、思わず英里は身をすくめた。
「邪魔じゃ……ないよ。英里なら。全然……」
言い訳のように、友彦はボソボソとそう言った。
机の電気スタンドに、友彦の頬が赤らんだように見えた。本当にそうだろうか? 英里には確信が持てない。青白い蛍光灯の光は、見るものの色を白く透明に変える。
「そお? じゃあ」
そうだったらいいのに。友彦が「英里なら邪魔じゃない」と言う気持ちが、英里の願ったものだったら。英里が友彦に抱いてしまった感情を、友彦も同じように英里に向けてくれていたら。
夢見る余地は、あると思う。可能性は、あるんじゃないか。英里はその可能性を、友彦の瞳に見出そうとした。直視できない恥ずかしさを押して、英里はやっとのことで友彦の目を見た。
友彦の、優しい、焦げ茶の瞳。
分からない。友彦は自分に好意を持ってくれてる。それは確かだ。
だが。
その好意は、自分の抱く感情と同じものかは分からない。後ろめたい英里の欲望と。
友彦は、普通の家庭で健全に育った普通の男のコで、だから英里のような暗い思いとは無縁で、だから――。
そうして何秒、友彦の瞳をうかがっていたろうか。
やがて英里は小声で言った。
「……分かんなくなったら、また来るね」
「うん。いつでも来て」
友彦の声は優しかった。
英里はゆっくりうなずいた。大好きな、友彦兄さん。
「うん。友兄も、いつでも訊いてね。英語なら力になるから」
「分かった」
「じゃあ」
「うん」
英里は椅子を持ち上げドアを開けた。
「おやすみ、友兄」
「ああ、おやすみ」