7、つのる思い-2
文字数 1,853文字
どうしたら眠れるだろう。
この家で、友彦の隣の部屋で、このベッドで眠る以上、もう安眠は訪れないのだろうか。
友彦がこの壁を挟んで隣に眠っている限り。
ピルピルと聞き慣れない音がした。すぐ近くで鳴っている。英里は風呂上がりの身体をベッドから起こし、カバンを開けた。
携帯電話の着信音だった。銀色の二つ折り携帯には、これといったデータは入っていない。空っぽだ。
「……もしもし」
英里は小声で応答した。
(英里さん、わたしです。柴田です)
こんな夜遅くに何の用か。英里は警戒して黙っていた。
(夜遅くにすみません。仕事の都合でこんな時間になってしまって)
向こうも非常識なのは承知のようだ。英里は早く切り上げたくて用件を訊いた。
「構いません。何かありましたか」
(そちらの暮らしには慣れられましたか)
「はあ」
追いやっておいて「慣れたか」もないものだ。だが英里はこのひとたちに逆らっても意味がないことを知っている。
それから柴田は、何か不足はないか、金は足りているかと訊いてきた。英里が手渡されている銀行口座もクレジットカードも、残高はすべて管理しているだろうに。うっとうしいことだ。
「とくに不自由はありませんから。永井家のみなさんもよくしてくれますし」
「母親」のように息子の様子を確認したいなら、これだけ答えてやれば充分だろう。英里は通話を切ろうとした。
(実は、社の方に不審な来訪がありまして)
「は?」
英里は携帯電話を握り直した。それが英里と何の関係がある。
(「蓮見信里氏に会わせろ」と、受付にえらい剣幕で。どこでどう調べたのか分かりませんが、二十代前半くらいの若者だったそうです)
あの因業オヤジ、今度はどこでどんな恨みを買ってきたやら。柴田は続けた。
(「息子さんの消息を教えろ」と)
息子さん。
英里は柴田に気づかれぬよう息を呑んだ。
――きっと、「彼」だ。
携帯電話を持ったまま数秒、英里は身じろぎもできずにいた。
余計なことをしないよう、あれだけ釘を刺しておいたのに。台無しだ。
その存在を隠し通すべく英里がどれだけ苦労したか、分かっているだろうに。
なのに、英里の行方を突き止めようとあちこち動き回っているとは。
(英里さん? どうかしましたか?)
英里は自分の指が震えているのに気づいた。せめて声だけは平静を保つ。彼らには情報の欠片すら与えてはならない。
「ああ、いえ。何でもありません。……僕には心当たりがありませんが。あなた方に交友関係をリセットされてから、命じられた通り誰とも連絡は取っていません。前の携帯電話を取り上げられて、連絡先も分かりませんしね」
英里の当てこすりには取り合わず、柴田は言った。
(わたしどもはあなたをお守りします。あなたについての情報は誰にも漏らしません。ですが、一応そちらでも、充分に気をつけていらしてください)
「何」に気をつけろと? 蓮見社長の嫡男を堕落させる汚らわしい誘惑に?
英里の耳に、つい一ヶ月前浴びせられた綾子の罵倒が蘇る。
あの女は、言いたい放題言ってくれた。自分を愛さない息子への不満を、このときとばかりにぶつけてくれた。
だが、英里の側にも言い分がある。
子供を愛さない親を愛する子供がどこにいる。
だから英里は「愛」を知らないのだというのに。
だから英里は「愛」を知るために、ああいう行動を取ったのだというのに。
英里は皮肉に曲げた唇を開いた。長らく父の代理を果たしてきて、今度は綾子の代理を務める柴田に、何か言ってやろうとした。
が、面倒になって、止めた。
「……分かりました。心に留めておきます」
(お願いいたします。では、おやすみなさいませ)
ピッと通話を切り、英里は携帯電話を放り投げた。
面倒だ。何もかもが面倒だ。
蓮見の家に関わることすべてが面倒だ。
こちらに来て一ヶ月弱、初めは見知らぬ土地の寒さにビビったが、東京に戻る気持ちは失せた。進学か、就職か、何かの折に行くかもしれないが、実家に足を踏み入れる気はない。
英里はベッドサイドの壁に目をやった。声を低めてしゃべったが、隣の部屋に聞こえただろうか。
友彦には、知られたくないと英里は思った。
東京で、英里がしてきたこと、綾子に見られたあの朝の光景、そのあとのやり取り、英里が実は空っぽで何も知らないでくの坊だということ、それらのすべてを友彦に知られたくない。
英里はひとり静かに目を閉じる。
目を閉じると、タンポポの黄色い海が広がった。
歌うような、ささやくような、王子さまの声がした。
この家で、友彦の隣の部屋で、このベッドで眠る以上、もう安眠は訪れないのだろうか。
友彦がこの壁を挟んで隣に眠っている限り。
ピルピルと聞き慣れない音がした。すぐ近くで鳴っている。英里は風呂上がりの身体をベッドから起こし、カバンを開けた。
携帯電話の着信音だった。銀色の二つ折り携帯には、これといったデータは入っていない。空っぽだ。
「……もしもし」
英里は小声で応答した。
(英里さん、わたしです。柴田です)
こんな夜遅くに何の用か。英里は警戒して黙っていた。
(夜遅くにすみません。仕事の都合でこんな時間になってしまって)
向こうも非常識なのは承知のようだ。英里は早く切り上げたくて用件を訊いた。
「構いません。何かありましたか」
(そちらの暮らしには慣れられましたか)
「はあ」
追いやっておいて「慣れたか」もないものだ。だが英里はこのひとたちに逆らっても意味がないことを知っている。
それから柴田は、何か不足はないか、金は足りているかと訊いてきた。英里が手渡されている銀行口座もクレジットカードも、残高はすべて管理しているだろうに。うっとうしいことだ。
「とくに不自由はありませんから。永井家のみなさんもよくしてくれますし」
「母親」のように息子の様子を確認したいなら、これだけ答えてやれば充分だろう。英里は通話を切ろうとした。
(実は、社の方に不審な来訪がありまして)
「は?」
英里は携帯電話を握り直した。それが英里と何の関係がある。
(「蓮見信里氏に会わせろ」と、受付にえらい剣幕で。どこでどう調べたのか分かりませんが、二十代前半くらいの若者だったそうです)
あの因業オヤジ、今度はどこでどんな恨みを買ってきたやら。柴田は続けた。
(「息子さんの消息を教えろ」と)
息子さん。
英里は柴田に気づかれぬよう息を呑んだ。
――きっと、「彼」だ。
携帯電話を持ったまま数秒、英里は身じろぎもできずにいた。
余計なことをしないよう、あれだけ釘を刺しておいたのに。台無しだ。
その存在を隠し通すべく英里がどれだけ苦労したか、分かっているだろうに。
なのに、英里の行方を突き止めようとあちこち動き回っているとは。
(英里さん? どうかしましたか?)
英里は自分の指が震えているのに気づいた。せめて声だけは平静を保つ。彼らには情報の欠片すら与えてはならない。
「ああ、いえ。何でもありません。……僕には心当たりがありませんが。あなた方に交友関係をリセットされてから、命じられた通り誰とも連絡は取っていません。前の携帯電話を取り上げられて、連絡先も分かりませんしね」
英里の当てこすりには取り合わず、柴田は言った。
(わたしどもはあなたをお守りします。あなたについての情報は誰にも漏らしません。ですが、一応そちらでも、充分に気をつけていらしてください)
「何」に気をつけろと? 蓮見社長の嫡男を堕落させる汚らわしい誘惑に?
英里の耳に、つい一ヶ月前浴びせられた綾子の罵倒が蘇る。
あの女は、言いたい放題言ってくれた。自分を愛さない息子への不満を、このときとばかりにぶつけてくれた。
だが、英里の側にも言い分がある。
子供を愛さない親を愛する子供がどこにいる。
だから英里は「愛」を知らないのだというのに。
だから英里は「愛」を知るために、ああいう行動を取ったのだというのに。
英里は皮肉に曲げた唇を開いた。長らく父の代理を果たしてきて、今度は綾子の代理を務める柴田に、何か言ってやろうとした。
が、面倒になって、止めた。
「……分かりました。心に留めておきます」
(お願いいたします。では、おやすみなさいませ)
ピッと通話を切り、英里は携帯電話を放り投げた。
面倒だ。何もかもが面倒だ。
蓮見の家に関わることすべてが面倒だ。
こちらに来て一ヶ月弱、初めは見知らぬ土地の寒さにビビったが、東京に戻る気持ちは失せた。進学か、就職か、何かの折に行くかもしれないが、実家に足を踏み入れる気はない。
英里はベッドサイドの壁に目をやった。声を低めてしゃべったが、隣の部屋に聞こえただろうか。
友彦には、知られたくないと英里は思った。
東京で、英里がしてきたこと、綾子に見られたあの朝の光景、そのあとのやり取り、英里が実は空っぽで何も知らないでくの坊だということ、それらのすべてを友彦に知られたくない。
英里はひとり静かに目を閉じる。
目を閉じると、タンポポの黄色い海が広がった。
歌うような、ささやくような、王子さまの声がした。